内気な男たちのInsideOut (2016年10月公演プログラム)

内気な男たちのInsideOut     

アーティストとは総じて皆「内気」なものであるが、そんな内気は社会の荒波の中では、残念ながらマイナスとされてしまうことが多い。だが真のアーティストには大抵「逆転の人生」が待っている。彼らはそういった自分の「弱み」をInside Out(ひっくり返し)して、遂には世間の評価を勝ち取っていく。

今回取り上げたシューマンとブラームスの作品は、その「内気」さから初演時にいずれも成功しなかった作品ばかりであるが、作曲家として彼らが自分自身を偽りなく表現した、いずれも名曲中の名曲。彼らの代表作ばかりである。

秘密結社「ダヴィッド同盟」とブラームスの登場

父親が本屋や出版社を経営し、翻訳に長け小説も書いたためか、シューマンは若い頃から文学に造詣が深く、自ら文章を書いて音楽雑誌Neue Zeitschrift
für Musik「音楽新報」を出版する。そして当時共に楽しい時間を過ごした仲間たちとの異業種交流から、シューマンは「David Bündlerダヴィッド同盟」という想像上の秘密結社を創り出す。この結社に所属する架空の登場人物として、FlorestanフロレスタンとEusebiusオイゼビウスという、一方は情熱的で外交的、そしてもう一方は内気な性格の二人を登場させ、そのペンネ―ムを使いながら、シューマンは「音楽新報」の中で新しい音楽評論の形を目指したのである。

この「ダヴィッド同盟」には他にも、メンデルスゾーンはMeritis(メリティス)、妻のクララはChiara(キアーラ)、クララの父ヴィークはMeister Raro(マイスター・ラーロ)として登場し、更にはベートーヴェンやシューベルト、モーツァルトやベルリオーズといった錚々たる顔ぶれが加わって、シューマンは自身を法律家Julius(ユリウス)の名で登場させている。

1853年ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムから若き天才ブラームスを紹介されると、新たに「Neue Bahnen新たなる道」というテーマで「音楽新報」に寄稿してその才能を絶賛し、新たなる未来を見つけた興奮を世に伝えようとした。だがそんな幸せも束の間、シューマンは翌1854年になると、幻聴や幻覚からライン川に身を投げて自殺未遂を起こし、56年には他界してしまう。ブラームスは最大の理解者を早期に失うこととなるのである。

一方は笑い、もう一方は泣く

ところで何故わたしが初めにシューマンの架空の秘密結社「ダヴィッド同盟」を持ち出したか?というと、それはブラームス:悲劇的序曲ニ短調作品81を読み解くためである。(Allegro ma non troppo~Molto più moderato~Tempo primo

アレグロ・マ・ノントロッポ~モルト・ピィウ・モデラート~テンポプリモ)

この作品が生まれたのはブラームスが47歳(1880年)の夏、バート・イシュルでのことだが、この時期ブラームスには2つの重要なイヴェントが待っていた。ひとつはブレスラウ大学からの名誉博士号授与であり、もうひとつは亡くなったシューマンの胸像設立式に参列することだった。そしてこの時期に「大学祝典序曲」と「悲劇的序曲」の名曲2曲が平行して作曲されたわけだが、この2曲についてブラームス自身が「一方は笑い、もう一方は涙する」と語っている事実は、先に挙げた、「ダヴィッド同盟」におけるフロレスタンとオイゼビウスの対比を思い起こさせる。シューマンという師を失ったブラームスの中に、その記念碑設立に立ち会った事実が影響したのでは、と思わせるエピソードである。

森羅万象、その理を表す

この「悲劇的序曲」という作品は、ブラームスの友人でウィーンの劇場主フランツ・フォン・ディンゲルシュテットのすすめで、ゲーテの代表作「ファウスト」の劇音楽として書かれた、という説があって、著名な音楽学者のアルトマンもこれを是認している。ブラームス自身はそもそも「悲劇」のストーリーではなく、単なる「ドラマティック」な序曲を作るつもりだったが、「一方は笑い、もう一方は泣く」という例えからも分かるように、最終的にはブラームス自身が「悲劇的」と命名している。

「音と自然の佇い」を感じさせるこの作品。「自分を囲む世界」へと向けられた視点から見えてくるのは、ただひたすら森羅万象とその理を見据えて表現しようとしたブラームスの愚直な姿である。聴きどころは、殆ど大オーケストラでしか演奏されないこの「劇的」序曲を、小編成のオーケストラのニュアンスによって、どこまでその真髄に迫れるか。興味深く聴いてみて欲しい。

クララを絶望から救うコンチェルト

ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15は、ブラームスがシューマン夫妻と出会った22歳(1853年)の時に書き始められ、4年後の1856年、シューマンの死後3か月経ってようやく完成された、ブラームス生涯2番目のオーケストラ作品である。初演はブラームス自身が演奏するも必要な評価を得られず、3度目の公開演奏でやっと聴衆から認められ、その苦難の道のりは計り知れないものであったが、これを支えたのは他でもない、亡きシューマンの妻クララであった。

クララはその日記に、1856年10月1日「ヨハンネスが素晴らしいピアノ協奏曲の第一楽章を書き上げた。私は彼の作り上げたこの作品の偉大なコンセプトとメロディーのやさしさに強く心を動かされた。」と書き残している。10月18日には「ヨハンネスが彼の協奏曲を書き上げた!私たちは2台のピアノでこの協奏曲を何度も演奏したのです。」と記している。その後クララ自身も何度かこの作品を演奏することで聴衆の理解を得ようと試みているが、残念ながらうまくいかず、ワーグナーに自身の妻コジマを奪われた名指揮者、ハンス・フォン・ビューローの登場を待って、初めてこの協奏曲は日の目を見ることとなる。

Dies Bildnis ist bezaubernd schön…

「なんと美しい絵姿よ

そもそも2台のピアノのためのソナタだったこの曲は、次に交響曲に変更され、最終的にはピアノ協奏曲第一番となったわけだが、その室内楽的な音の扱いが全楽章を通じてはっきりと感じ取れる作品でもある。第一楽章(Maestosoマエストーゾ)は25分を超える大作だが、交響曲のそれとはまるで違う音のパレット。ニ短調とは言いながら変ロ長調で始まり、調性は楽章を通じて極めて移ろいやすく、その繊細な色使いは、表現者にとって越えなければならない大きな関門である。クララに宛てて「君の優しい表情の肖像画を描くアダージョとなるでしょう。」とブラームス自身が書き記した第二楽章(Adagioアダージョ)。その最初の5小節には「神の御名に集う者たちが祝福されんことをBenedictus qui
venit in nomine domini」と書き記しているが、この祈りと慈愛に満ちた音の絵は、ブラームス本来のやさしさを表現する傑作と言えよう。第三楽章(Rondoロンド)はベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番の影響を思わせる始まり方だが、迸る情熱、そしてオーケストラとピアノソロの掛け合いに是非とも注目して頂きたい。

天国からの嫉妬か?二人の破局を呼ぶ交響曲の罠

クララとブラームスの間にあった蜜月関係を壊しかねない事態が、亡夫の交響曲をめぐって起こるなどと、一体誰が想像したろう。入水自殺を図ったシューマンが、「あの世でもクララ、君と結ばれたい」と願ってライン川に結婚指輪を投げ捨てたというのは、極めて有名な逸話だが、そんなシューマンがクララの誕生日にプレゼントとして贈ったこの交響曲が、ものの見事にクララとブラームスとの関係に亀裂を生じさせたとすれば、あまりにも出来過ぎた話ではないか。

シューマンがヨーロッパ随一の女流ピアニスト、クララ・ヴィークと結婚して120曲以上もの歌曲を生み出した「歌の年」の翌年1841年は、交響曲が3曲も生み出されて「交響曲の年」とされている。有名な交響曲第1番「春」の大成功に続いてシューマンが書き終えたはずの、本来第2番と銘打たなければならない作品が、今夜お聴き頂く交響曲第4番である。

何故第4番となったのかについては、誰しも不思議に思うところである。だがこの交響曲の初演は、残念ながら交響曲第1番ほどの成功を収めることができず出版を断られてしまったため、その後長い間シューマンによって部屋の片隅に放置されてしまう。その期間はなんと10年間。10年後に手直しされ出版にこぎつけた頃には、もう既に第2番、第3番が出版されていたため、本来交響曲第2番となるはずだったこの作品は、交響曲第4番ニ短調作品120として出版されることになった。

 

一楽章の交響曲

 この曲の初稿が初演されたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のプログラムを見て驚くのは、第一部と第二部の最初にシューマンの書き上げたばかりの新作交響曲が一曲ずつ置かれていることだ。誰も聴いたことがない交響曲の初演を2つするなら、観客の評判は芳しくないことは想像に難くない。同年初演された第一番「春」が大成功した理由の一つに、メンデルスゾーンの指揮者としての手腕が挙げられるが、その彼がベルリンに居て指揮できなかったことも、シューマンにとっては大きな痛手だった。また、この音楽会自体はクララのために催されたものだったが、そこに当時ピアニストとして神のごとく崇められていたフランツ・リストが友情出演し、クララと共に登場して演奏したとなれば、聴衆にとってはもはや、シューマンの交響曲などそっちのけで、リストやクララのピアノ演奏を何より優先して聴きたい、ということになるわけだ。クララ自身も「2つの交響曲の初演は多すぎた」と回想しているが、シューマンの意図した「全ての楽章をつなげる」交響曲の書き方は、当時の聴衆が持っていた常識を遥かに超えたものだったようで、まるで長い第1楽章を思わせ失敗をした、というのがどうやら真実のようである。

交響曲の復活

それから10年後の1851年、デュッセルドルフ市音楽総監督として交響曲第3番「ライン」を初演し大成功を収めたシューマンは、同い年の作曲家で私たち日本人にもお馴染みのノルベルト・ブルクミュラー(1810~1836)が残した未完の第2交響曲の補筆を頼まれるわけだが、この仕事を途中で投げ出すとシューマンは、何とその昔に出版を諦めたはずの自身の交響曲の補筆を始めるのだった。こうして翌1852年12月に完成すると、交響曲第4番の第二稿は1853年3月にシューマン自身の指揮で初演され、それから2か月後の「ライン音楽祭」公演では、まさに大勝利とも言える瞬間を味わうことになる。

今は亡き夫に対する敬意

この第二稿初演の年にシューマンと出会い、「新たなる道」として世間に紹介された若きブラームスは、後年この交響曲の古い初稿をクララから贈られると、その初稿を最終稿よりも優れたものとして評価し始める。1888年クララに宛てた手紙にブラームスは、「この初稿を出版しようと思います。この作品のスコアを見たなら、その誰もが最終稿で改善されたなどとは思わないことでしょう。最終稿では初稿にあったような美しさや軽さ、明快さが失われているのです。」と書き記している。これに対しクララが最終稿を支持したのにも関わらず、1891年ブラームスは友人に宛てて、この初稿を出版するよう依頼する。クララはこの初稿が出版されるとは知らずにいたため、ブラームスとの仲に亀裂が生じることになるのである。「ブラームスがこの初稿を大切に考えていることは知っているが、この初稿が出版されあちらこちらで演奏されることは、正しいことではないと考える」とクララは語り、「夫に対する敬意に欠く行為であり、このような結果になるとは思いもしなかった。」とかなり手厳しく批判している。

この交響曲第4番は4つの楽章に分かれている。

第一楽章Ziehmlich Langsam(かなりゆっくりと)~Lebhaft(生き生きと)

第二楽章Romanze Ziehmlich Langsam(ロマンツェかなりゆっくりと)

第三楽章Scherzo Lebhaft(スケルツォ 生き生きと)

第四楽章Langsam~Lebhaft(ゆっくりと~生き生きと)

ブラームスに見られた「森羅万象」を表現しようとする「外を見つめる」視点は、シューマン作品では人間の内面を表現しようとする「内側を見つめる」視点に変わることに注目してほしい。

特筆すべきは第二楽章のロマンツェで現れる、まるでヨーロッパ中世から飛び出してきたかのような吟遊詩人の歌である。オーボエとチェロの描き出すものがたりの世界から曲想がソロ・ヴァイオリンに転じた瞬間、哀しみは幸せの記憶へと一変する。

また第三楽章で繰り広げられる人間の労苦は、第四楽章で開放され、幸福な結末へと昇華される。そんな人間ドラマを「悲劇の誕生」と掛けてみたが、今夜お聴き頂いたブラームスとシューマンの音のちからから生まれた世界観は、いずれも希望に満ちた世界への幕開けとなったのではないだろうか。

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