世界で活躍するオーケストラ指揮者が語る「ボーダーレス時代のリーダーシップ」②-4 – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

――門外不出のミステリアスな奥義のようなものはなく、演奏する内容はすべて公開されているのが西洋音楽である、と。

村中 もし西洋音楽にミステリーの部分があるとするなら、それは数字の中に見え隠れする神秘的な部分と同じようなものでしょう。西洋音楽についての歴史的な著述として、ある中世の僧侶がこんなことを述べています。

「音楽とは宇宙そのものである。この宇宙は様々な音の諧調によって構成され、天はその音の調べに合わせて回転しているのだ」

この一節は、米国の歴史家アルフレッド・W・クロスビーの著書『数量化革命』(邦訳・紀伊国屋書店)で紹介されています。中世以降も発展してきた楽譜の明快さの中に、日本の奥義とはまったく異質の、数学や天文学と通ずるミステリーが隠されているのは間違いないと思います。

もし天文学と同じように西洋音楽が科学であるならば、私たち日本人がその音楽にアプローチして、裏にあるミステリーを発見し、理解することは可能なはずです。別の見方をすると、そのくらい西洋音楽とは人類にとって普遍的で偉大な遺産であり、私たち日本人が愛して止まない理由もそこにあります。西洋音楽からJポップや歌謡曲や演歌が生まれ、現代の私たちの生活を豊かにしてくれているのですから、西洋音楽はもはや日本人の生活の一部となっていると言えるでしょう。

このように考えて、私は「自分に西洋音楽が理解できる理由」が見えてきたのです。音楽は科学と同じく人類の遺産なのだから、日本で培われた感性が優れてさえいれば、星の運行を見つめる角度は東洋と西洋で違えども、「自分自身の角度」から見ていけば日本人も西洋音楽の本質に迫り、理解することができるはずだ――。そういう確信が生まれました。

――日本で生活する中で育んだ感性は、西洋音楽を理解する上でむしろ強みになるということですね。

村中 はい。そんな確信を得て、私はヨーロッパで初めて「ああ、日本人でよかったな」と思うことができました。日本人には、ドイツ人やイタリア人、フランス人が見えない景色が見えているはずだということがわかった。「日本人であることを掘り下げて行こう!」という意識が生まれた瞬間です。

一方で、自分の中にもう一つ、考えるテーマが生まれてきました。それは「私たち日本人は、過去にどのような視点から西洋の音楽と向き合ってきたか?」というものです。ヨーロッパ人が「お前たち日本人に西洋音楽はわからない」と言うのであれば、日本人がどう西洋音楽と向き合ったためにこのような印象を彼らに与えたのか、解明したいと思ったのです。

やがて、そこを掘り下げて考えていくに連れて、私は、日本人が陥りやすい「罠」のようなものがあることに気づきました。

――日本人が陥りやすい罠とは何なのか、興味があります。ぜひ説明してください。

村中 私たち日本人は、「技術」を掘り下げていくのが得意だという特徴を持っています。たとえば茶道で、点前の上達を測るバロメーターとなるのは、茶を点てる者の動きのしなやかさであり、心の静まり具合です。こういった身体の動きや心の状態は、客をもてなす際にきわめて重要であり、そのために動作や心の技術を磨くのがよしとされています。

でも、これは、あくまで「相手と自分の関係性」の中だけで技術を掘り下げるという方向性です。それだけでは、まだ見えてこないものがあります。

――人との「関係性」の中だけで技術を掘り下げていては見えないもの、とは?

村中 それは「何のために茶を点てるのか」「茶を点てることを通じて何を表現したいのか」という「目的」です。そして、「何を表現したいのか」という目的意識は、人との関係性の中だけで技術を掘り下げれば掘り下げるほど欠落していきます。

日本人はそういう罠、あるいは落とし穴にはまりやすいのです。細部に目を奪われすぎて、本質を見るのを忘れることに似ています。

ビジネスやサービスの世界でも同じような側面があるのかもしれません。たとえば日本では、多くの店舗は「お客様に喜んで頂けるように」と、塵一つ、傷一つない品物を包装紙で何重にも包み、失礼のないようにということを第一に考えておもてなしをしますよね。中には、いかにすばやく包装紙で包むことができるかを競争する大会のようなものもあると聞きます。

日本人はそのくらい、自分と目の前の相手との関係に対して敏感なのです。関係性についての自分の技を磨いて、目の前にいる人に「おもてなし」をしなければならない、と。もちろん、それを大切にしていることは、日本人の美徳でもあります。

でも逆に、外側を整えたものを相手や客に渡すことばかり考えて、行き過ぎたサービスであるにもかかわらず、その点ばかりに意識が行ってしまうとどうなるでしょうか? 「何を伝えたいか」というメッセージが欠落しがちになるのは間違いありません。

逆の見方をすると、「何を伝えたいか」あるいは「何を表現したいか」が見つからない場合、日本人の傾向として、関係性に飛びつこうとすることが多いようです。つまり、「相手が喜んでくれる」ということが最重要課題になってしまうので、「何を表現したいか」が抜け落ちても、とりあえず言い訳はできる。しかしヨーロッパ人にとっては、音楽の表現がそういった表面的なものに終始すると、本質を持たない「ごまかし」にしか感じられないのです。

――逆に多くの日本人にとっては、目の前にいる人間との関係性の方が、本質論よりもはるかに重要に感じられる……。

村中 だから本質を忘れて、枝葉である表面的な技術ばかりに力を入れてしまいがちになるのです。この、非本質的な部分を磨くことばかりを重んじる傾向が、職人性が尊重される世界でもときどき見受けられます。

私の経験では、たとえば一部のお寿司屋さんで、客と店の間にそんな雰囲気を感じたことがありました。今も同じようなところはあるでしょうが、特に昔は、慣れない人間が寿司屋に行くと、何からどう頼んでよいかわからないものでした。メニューや値段の表示がない店では、「通」の人間でないと入れないような雰囲気があったと思います。(to be continued)

「横浜に新しいオーケストラを作る」と私が言ったとき、彼らは笑った。でも、私が世界のクラシック音楽の祭典で 「イノヴェーション・アワード」にノミネートされると…

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光を怖がるひとたち – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

光と影を見事に扱った画家カラヴァッジョの作品を見ていて

いつも思うことは

光がなければ影ができないということ。

人の世で光を怖がるひとは多い。

光が輝くことによって

己の見せたくない部分、あるいは自分で見たくない部分に

眼を向けざるを得なくなる。

それが嫌だし、怖いのだ。

自分はできないのではないか。

自分のあの部分が知られたらどうしようか。

そういう怖れを抱えている人が多い。

芸術家というものは、その怖れから自由なひとを指す。

別に絵を描いたり、音を奏でるから芸術家になれるのではない。

ビジネスマンであっても、怖れから自由なひとはみな芸術家の称号を得る。

怖れとは自由を奪う。

それは何よりも尊い「純粋さ」を奪うからだ。

自由が我々に条件として求めるのは、ひとの中の純粋さだ。

その部分が響きあうとき、不思議な創造が生まれる。

子供から自由を奪うな。純粋さを奪うな。

子供の眼はすべてを映す鏡だ。

その眼に映る己の姿を見て、ひとは脅迫されたように思うのだ。

子供に本当の姿を見られてはならない、そう思うのだろう。

だから子供の純粋さを奪おうとする。

それが今の時代だ。

飛べない大人に、何を語る権利があるというのか。

子供の眼にはすべて明らかなのだ。

光をこわがるな。

すべてを光の下にさらすのだ。

それができなければ

誰もが罪のない罪を抱えながら生きることになる。

ただ怖いだけなのに、恐怖が罪の意識に転化されてしまう。

検証ができないひとたち。

真実に光をあてるのが怖い人たちに告ぐ。

そのままではあなたたちは救われない。

いつまでも恐怖のとりこのままだ。

純粋な眼を取り戻せ。

子供の、あのこわいくらいに純粋な眼を。

世界で活躍するオーケストラ指揮者が語る「ボーダーレス時代のリーダーシップ」②-3 – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

前回からの続きです。

ドイツ人指揮者の「お前たち日本人にわかってたまるか」という発言は、実際にはヨーロッパで普通に語られるものだったのです。

それから数年経った時期、ローマに拠点を移していた私は、ある有名な国際指揮者コンクールの最終審査の対象3人の中に、100人以上の指揮者から選ばれました。その審査が終わると、1人の審査員が私のところに寄ってきて、「貴方は本当に日本で生まれたのか?」と訊くのです。私が「23歳で大学を卒業するまで日本に住んでいました」と言うと、「あり得ない!」という答えが返ってきました。

その審査員はフランス人で、私が指揮したフランス音楽、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を聴いていたく感動してくれたらしいのですが、そのリアクションが「貴方が日本人であるわけがない! きっとイタリア生まれの日本人だろう?」でした(笑)。「貴方がリハーサルで話していたイタリア語は日本人離れしているし、音楽の語法が他の日本人音楽家のものとまったく違う。こんな日本人には初めて会った」などと言ってくれました。

最初、褒められたと思って嬉しく感じたのですが、よく考えてみれば、この審査員の言葉の裏にあったのは、「日本人は外国語が下手だし、日本人の音楽の語法は独特だから受け入れられない」という見方。明らかに私たち日本人に対する負の先入観があったのです。つまり、先のドイツ人指揮者とこのフランス人審査員は、基本的に同じ意見を持っていたのです。

――日本人の音楽家が当時のヨーロッパで一般的にネガティブな先入観を持たれていた、と?

村中 実はしばらくして、こんなことがあったんです。ローマの自宅で聴いていたイタリア国営放送(RAI)のラジオ番組で、ある日本人ヴァイオリニストのリサイタルが放送されました。解説者はイタリアでもトップクラスの批評家で、よく新聞の文化欄で署名原稿を目にする有名な方でした。
ところが、彼がその日本人ヴァイオリニストを評したのを聴いたときは愕然としました。彼は演奏を聴き終わると、こう早口にまくし立てたのです。

「日本人といえば、非常に機械的な演奏をすることが多いが、このヴァイオリニストもやはりどこか音楽の表層ばかりを追っていて、確かに技術的には申し分ないものの、音楽の本質的な部分に迫っていないような気がする」
ドイツ人やフランス人だけでなくイタリア人の意見も同じなのか、と思って私は驚きました。「日本人にベートーヴェンはわからない」という見方はヨーロッパ人の共通認識だ――。それが私の検証結果となったのです。

そこで私は自問自答しました。ヨーロッパ人が言う「日本人との違い」とは何なのか? 彼らネイティブスピーカーのようにヨーロッパの言語が見事に操れれば、それで話は終わりなのだろうか? その言葉を駆使してヨーロッパの文化と伝統についての理解が深めれば、彼らの言うベートーヴェンの本質に近づけるのか? あるいは、ヨーロッパ人が好んで語る「音楽のスタイル」や「音楽語法」を努力によって身に付ければ、本当に同じ土俵に立てるのか?

――そう考えると、窮地に立たされるような感覚になりませんか。日本人にとって何もかも新しいヨーロッパで、何から始めればよいのか……。

村中 そうなんです。いろいろ考えると、「日本人が西洋音楽をやることに何の意味があるのか」なんて疑問さえ出てきてしまいそうになります。
でも、よく考えてみてください。仮に「ベートーヴェンはドイツ人だから、彼が使っていたのと同じドイツ語ができなければ、ベートーヴェンの音楽がわからない」とするなら、私がドイツ語を知らない中学生のときに感じたベートーヴェンのピアノソナタ「月光」の美しさは、ニセモノでしょうか?

 私が外国を経験したことのない純粋な日本人の若者として捉えた「月光」の美しさやはかなさ、そして終楽章の絶望的な激情、そういったものを理解できる感性は、本当に世界に通用しないのでしょうか?

先ほどお話ししたドイツ人指揮者やフランス人審査員、イタリア人批評家らの考え方が正しければ、私たち日本人はここで“ゲームオーバー”になってしまいます。ヨーロッパのどこかの国で生まれた音楽は、その国の人々だけが理解でき、また彼らだけが本質に迫る演奏をすることができる、という考え方ですね。実際、ベートーヴェンはドイツ人しか、ドビュッシーはフランス人しか、そしてロッシーニはイタリア人しかわからない――という気持ちを、ヨーロッパ人はどこか本質的に持っているのです。

一つの例を挙げると、現在、バイロイト音楽祭などを中心に世界的に活躍しているクリスティアン・ティーレマンというドイツ人指揮者がいます。ある時期ローマで活動をしていたこともあって、彼の話すイタリア語は見事なものでした。
そのティーレマンが、ボローニャの歌劇場でヴェルディの歌劇「オテロ」を指揮したことがありました。ところがイタリア人は、ドイツ人が指揮するヴェルディの音楽を認めようとしないのです。「ドイツ的」という言葉で酷評されていましたね。

同じような話があります。モーツァルトの最も有名なオペラで、ダ・ポンテというイタリア人が台本を書いた「フィガロ」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」の3部作は世界的に最高傑作とされていますね。でもイタリア人たちは、モーツァルトがオーストリアのドイツ語圏の出身だというだけで、イタリア語で書かれたこれらの作品を「ドイツ・オペラ」(Opera Tedesca)と呼ぶのです。彼らにとって、決して「イタリア・オペラ」(Opera Italiana)ではありません。

――自国の文化に対して、今なお強烈なブライドを持っているのですね。

村中 彼らの気持ちになれば当然のことかもしれません。イタリアを含めてヨーロッパでは、自国の音楽家や彼らが創り上げた作品こそが、個人と社会の誇りであり、アイデンティティなのです。ヨーロッパ人にとって音楽とは、「お国柄」をはっきり表す重要な文化的遺産だと言えます。
そこで私がさらに検証したいと思ったのは、「なぜ日本人の私にも彼らの音楽が理解できるのか?」という点です。まず考えられる理由は「楽譜」の存在。日本の伝統音楽と違い、西洋では記譜という技術によって音楽が数学的に計算・処理され、論理的に紙の上に記されていきます。

すべての楽器の音が楽譜の上に、まるで建造物のように描かれる。そのため、さまざまな角度から楽譜を理解し、音楽の形を発展させる土壌が生まれました。そこには、記憶や口伝を頼りとする他の国や地域の音楽形態とは明確な違いがあるはずです。

たとえば日本の芸やアートの分野では、その表現方法が「○○道(どう)」として師匠から弟子に口伝などで継承されますが、「秘伝」の部分については基本的に一子相伝です。秘伝という高度な領域が、ミステリー、つまり外部からは訳のわからない不確かな奥義として隠されているのです。
でも、西洋音楽は日本の「道」と対照的です。細部に至るまですべてが記譜法によって書き尽くされ、明らかにされているように見える。

――門外不出のミステリアスな奥義のようなものはなく、演奏する内容はすべて公開されているのが西洋音楽である、と。

村中 もし西洋音楽にミステリーの部分があるとするなら、それは数字の中に見え隠れする神秘的な部分と同じようなものでしょう。西洋音楽についての歴史的な著述として、ある中世の僧侶がこんなことを述べています。

「音楽とは宇宙そのものである。この宇宙は様々な音の諧調によって構成され、天はその音の調べに合わせて回転しているのだ」

この一節は、米国の歴史家アルフレッド・W・クロスビーの著書『数量化革命』(邦訳・紀伊国屋書店)で紹介されています。中世以降も発展してきた楽譜の明快さの中に、日本の奥義とはまったく異質の、数学や天文学と通ずるミステリーが隠されているのは間違いないと思います。

ここから先はまた次回!

「横浜に新しいオーケストラを作る」と私が言ったとき、彼らは笑った。でも、私が世界のクラシック音楽の祭典で 「イノヴェーション・アワード」にノミネートされると…

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シューリヒトのブルックナー(2010年4月の忘録から) – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

ウイーンの国立歌劇場横に

Da CarusoというCD屋がある。

そこは知る人ぞ知るマニアックなCD屋だが

そこのオヤジが留学当時薦めてくれた

ブルックナー交響曲第9番のCDが

何を隠そう

シューリヒトの指揮によるウイーン・フィルとの

EMIからの録音だった。

ウイーンの人はブルックナーを自分の街の作曲家と思っており

シューベルトやマーラーとある意味同列に考える。

「ヴィーナーリッシュ」

つまりウイーン風の音楽だというのだ。

この「ウイーンらしさ」を表現できる人は

意外なことに少ないらしい。

評価の高かったのは

当時の歌劇場音楽監督アッバード。

そして往年の名指揮者

カール・シューリヒト。

いずれもシューベルトの感覚を

ブルックナーやマーラーの演奏に感じさせることのできる指揮者だ。

ブルックナーの音のなかには

ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏やピアノソナタ、

バッハのある部分から継承した

形而上学的な要素に加え

ウイーンの自然が感じられる。

「音の中の自然」とは

すなわち

日本人にも通ずる

自然の中に神の存在を感じる感覚だ。

でもその「自然」のあり方が

微妙に違うところが

ウイーンのウイーンたる所以か。

オーストリアの自然に

日本の自然のような優しさはなく、

極めて異常に感じられる青であり緑だ。

エゴン・シーレの初期の絵にさえはっきりと表れる

鮮やかな暗さとでも言ったらいいだろうか。

そして空気の中にカビの生えた感覚。

世紀末ウイーンを象徴する

フロイトの心理学は

このカビ菌を含んだ空気から生まれたのではないか?

そう思いたくなる街の景色である。

21世紀の今でも

そこにはバロックがあり

時代の流れが止まっているように感じたのが

私の中のウイーンの記憶。

かつてフランツ・ヴェルサー・メストが

ロンドン・フィルの常任に若干30歳にして就任し

マーラーの復活の緩徐楽章の最初のリズムで

既にウイーンの響きを解き放っていたのを聴いて

本当に感激し、驚きもした。

メストはロンドンでブルックナーの素晴らしい解釈を残している。

そういう土地の色・匂いや雰囲気

いやもっというなら地霊との交信ができることは

とても重要なのかもしれない。

世界で活躍するオーケストラ指揮者が語る「ボーダーレス時代のリーダーシップ」②-2 – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

渡欧してウィーン国立音楽大学の指揮科で留学生活を始めた直後にありました。先輩のドイツ人指揮者から「お前たち日本人なんかにベートーヴェンがわかってたまるか」と言われたのです。

これはまさにカルチャーショックでした。そういうことは普通、内心では思っていても、「黙って語らず」というのがヨーロッパ人の不文律のようなものでしたが、そのドイツ人は違ったわけです。

――そんなショッキングなことを言われて、何と答えたのですか?

村中 私はとっさに切り返しました。「君たちドイツ人だけでなく、僕らのような極東の日本人にもわかるくらいベートーヴェンの音楽は素晴らしいものだし、普遍的な音楽だと思う」と。

今にして思えば、この出来事は自分自身を見つめ直す大きなチャンスであり、ある意味で「天からの問いかけ」だったのです。当時は自分でもうまく切り返したつもりだったのですが、後になればなるほど、相手が発した言葉のエネルギーがボディブローのように効いてきました。私の心の中に、「本当に自分の言った通りなのかどうか、実際はどうなのかを検証してみたい」という欲求がふつふつと湧いてきたのですね。

ここで申し上げておかなければならないのは、当時から私は、西洋人の音楽作りと自分の音楽作りにあまり大きな違いを感じていなかったということです。日本の普通の大学を卒業して、独学に近い形で音楽を勉強していたので、ウィーンには先入観なしに音楽を学びにやってきた。「当たって砕けろ」みたいな感じで留学したというか(笑)。誰かに教わった通りに音楽をやってきたわけではなく、自分の方法論は未熟ながらも確立していました。それが独学の強みでしょうか。

加えて、「これは日本人の先達に感謝しなければならないな」と思ったことが、留学当初はたくさんありました。実を言うと、私が外国で生活を始めたときの第一印象は、「なんだ、日本の方が優れているじゃないか」というものだったのです。「ヨーロッパの方が日本より優れている」とは思わず、日本の優れた文化と比べたとき、「ヨーロッパははたして本当に凄い文化と言えるのだろうか?」という疑問が先に出てきてしまったのです。

――具体的には、日本の文化のどんなところがヨーロッパに負けていないと感じたのですか。

村中 まず、「食に対する感性の違い」に驚きました。食文化において、明らかに日本の方がヨーロッパより優れていると実感できたのです。

それだけではありません。「身体が大きいヨーロッパ人には、華奢な日本人が持っている繊細さが欠如しているのではないか」と思うような場合も散見されました。たとえばサービス業でも、彼らの毎日の仕事に対する大雑把さには、日本の“お客様至上主義”と違う価値観が見え隠れしました。

端的に言うと、ウィーンでいろいろな店に入ったとき、店側に客を叱りつけるような言葉や態度が多かったことがまず印象に残りました。客を客とも思わぬ態度。そういった様子を目にすると、「日本人の社会がいかに素晴らしいか」がよく見えてきたのです。

だから、いざ音楽をするとなったとき、それがたとえ元はヨーロッパの文化であっても、日本人として音楽への感性が劣るといったコンプレックスを感じることは微塵もありませんでした。そんなことを思いながらウィーンでの生活を始めた最初の年に、「日本人にベートーヴェンがわかってたまるか」というドイツ人指揮者の言葉と出会ったので、割合と冷静に受け止められたのかもしれません。

実は、この言葉の妥当性を考えてみると、当時のヨーロッパでは意外にも「日本人の演奏家は“機械的”に演奏をする人が多い」という評価が多かったのです。これには私も正直驚きました。ドイツ人指揮者の「お前たち日本人にわかってたまるか」という発言は、実際にはヨーロッパで普通に語られるものだったのです。

それから数年経った時期、ローマに拠点を移していた私は、ある有名な国際指揮者コンクールの最終審査の対象3人の中に、100人以上の指揮者から選ばれました。その審査が終わると、1人の審査員が私のところに寄ってきて、「貴方は本当に日本で生まれたのか?」と訊くのです。私が「23歳で大学を卒業するまで日本に住んでいました」と言うと、「あり得ない!」という答えが返ってきました。

その審査員はフランス人で、私が指揮したフランス音楽、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を聴いていたく感動してくれたらしいのですが、そのリアクションが「貴方が日本人であるわけがない! きっとイタリア生まれの日本人だろう?」でした(笑)。「貴方がリハーサルで話していたイタリア語は日本人離れしているし、音楽の語法が他の日本人音楽家のものとまったく違う。こんな日本人には初めて会った」などと言ってくれました。

最初、褒められたと思って嬉しく感じたのですが、よく考えてみれば、この審査員の言葉の裏にあったのは、「日本人は外国語が下手だし、日本人の音楽の語法は独特だから受け入れられない」という見方。明らかに私たち日本人に対する負の先入観があったのです。つまり、先のドイツ人指揮者とこのフランス人審査員は、基本的に同じ意見を持っていたのです。(to be continued)

「横浜に新しいオーケストラを作る」と私が言ったとき、彼らは笑った。でも、私が世界のクラシック音楽の祭典で 「イノヴェーション・アワード」にノミネートされると…

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