ルービンシュタインとグールド(3) – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

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前回のルービンシュタインの考え方とは

スピリチュアルな意味でも

生演奏は人に少なからず影響をあたえることを

自身の演奏経験から

そしてまた自身のスピリチュアル体験からも

生演奏を拒否するグールドに伝えたかったようだけれど

さあ、グールド先生どう反論するか。

G.G.: Well, maybe so. Certainly, when you’re making a recording you are left alone. You’re not surrounded by five hundred, five thousand, fifty thousand people who are in a position to say at that moment, " Aha, that’s what he thinks about that work, eh!" But that seems to me a great advantage. Because I think that the ideal way to go about making a performance or a work of art – and I don’t think that they should be different, really – is to assume that when you begin, you don’t quite know what it is about. You only come to know as you proceed. As you get two thirds of the way through the session, you are two thirds of the way along toward a conception. I very rarely know, when I come to the studio, exactly how I am going to do something. I mean, I ‘ll try it in fifteen different ways , and eight of them may work reasonably well, and there may be a possibility that two or three will sound really convincing. But I don’t know at the time of the session what result is finally saying , " That doesn’t work; it isn’t going to go that way; I’ll have to change that completely. " It makes the performer very like the composer, really, because it gives him editorial afterthought, it gives him that power – it’s a different kind of power than you were talking about, certainly, but it’s very real nontheless. Well, obviously, this is something that you cannot do in a concert, if only because you can’t stop, as I always wanted to , and say, " Take two."

A.R.: Well, yes , that is plausible. Recording is a different thing – it is a different affair. But do you do what I do? I make a few, you know, whole takes, and it’s very rare that I want to pick up anything. Sometimes, something happens with one wrong note, and you fix it like a false tooth – you just chip it off and replace it from the other take, you know , so it sounds right. But I like to play the whole thing once I ‘ve started because I cannot bear breaking it up.

G.G.: No, I can bear it because, first of all, I believe in editing. I agree that it’s helpful to make one full take per movement, but I see no particular reason why one couldn’t do something in one hundred and sixty-two different segments and never, in fact, do it straight through. I don’t work that way myself, but I see no reason why one couldn’t.

というわけで

ここで両者ガップリ四つに

持論展開です。

今書いていて思い出すのは

スヴィアトスラフ・リヒテルがウイーンで

よく夜の11時から演奏会を開いていた話です。

彼は録音嫌いで

録音をするとしても

絶対全曲を通すひとでした。

しかもライブ録音が殆どですし

思えばクライバーと共演したドヴォルザークのピアノ協奏曲と

ロストロポーヴィチと共演したベートーヴェンのチェロソナタ全曲録音ぐらいです。

スタジオ録音というのは。。。(もちろんもっとあるでしょうけれど。)

何故か。

やはり本番にはミューズの神が宿るといいますが

「目に見えないちから」を信じるということに

つきるのではないでしょうか。。。

極めて現実的なグールドの考えにすると

録音セッションのお蔭で

自分が曲自体の製作に

まるで作曲家のごとく

主導権を握れることで

演奏家の理想を実現することが可能になる。

ルービンシュタインは

演奏の本質は別のところに見ていて

何かが宿る瞬間や

空気感

そういったものを

演奏の真髄とする。

面白いですねえ。

まだまだ続きます。。。

To be continued…

ドイツ語のmusizierenの意味 – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

ウイーンに7年くらい住んでました。

で。

先日お勧めしたブラームスのクラリネット5重奏曲と

ハ短調のカルテットなんですが。。。

車で夜中にお茶の水の山の上ホテルに

ローマからいらしてた野尻先生(お茶の師匠)に会いに行きまして

道すがら

その録音聴いてたわけです。

そしたらこのmusizierenというドイツ語を

ふと思い出したわけです。

なんて言うか

伝えておかなきゃみたいな

そんな気分になりまして

今、書いてます。

ドイツ語と言っても

ウイーンってオーストリアだから

これまた違うんですが。

彼らの言うムジツイエレン(と読むんですが)は

意味がケッコウ深いんです。

直訳ではplay music(音楽する)なんですが

ウイーン風だと「初見で演奏する」とか

あるいは「同じ語法で演奏する」とか

あるいは「いい音楽をする」とか言う意味になるんですね。

明日からこの3点について

少しおしゃべりしましょうか。

今日はお疲れ様。

素敵な週末をお過ごしください。

ルービンシュタインとグールド(2) – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

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さて 前回の続きです。

前回はルービンシュタインが

「演奏におけるある種のミステリー」

について話しています。

「聴き手の魂に訴える演奏」を目指すルービンシュタインと

それに対する「演奏会は完全なる演奏にとって不要」論を

固持するグールドの対話

第二章です!

A.R.: We know prettey well , this soul appears to be so frightfully necessary, as religion is necessary or seems to be – we must have it – and in all the cultures , as far as we can trace, there was always something there to worship, there were all those totems and God knows what. Well, soul is a kind of power. And the power has been very much exploited, sometimes in a ridiculous way, sometimes in a childish way. Well, now, in my young days – you were also not born to that – there was much activity in, you know , séances – spiritistic, spiritualistic experiments – in which I was very active, very , very avtive. It was a very serious affair. There were great scientists like Sir Oliver Lodge, whom I knew very well personally. On a crossing together once, I talked with him everyday. He was persuaded that he was talking to the dead and having communication with them and so on. Well, in any case, you know, at the séances, the tables were actually – without tricks, I assure you – the tables were responding. I know that – no tricks – I had open eyes , and besides, there was enough light. But the fact that we were holding hands and were committing our concentration created a response, you see. But now comes the funny thing. Somehow I was always, at those séances , chosen as the boss, you know , the fellow who talks with the ghost. Well, whenever somebody spoke, it was to Napoleon – one always likes to speak to Napoleon or Chopin or your grandfather or somebody like that of importance – but I always knew who was coming along and what he was going to say. The others would be astonished: " Ah , what emanations! " " Did you hear that ?" " He said this and this. " But not me. What does it mean, after all? It means simply that I concentrated the powers of the others in me. You see, I believe a fellow like Napoleon or Hitler or Mussolini or, you know, Stalin – certain men with some sort of emanation – had much, much more of that power than other people.

I speak of that because if you would have followed the pianistic career for many years as I have – over sixty-five years, you know – you would have experienced this constant, constant, constant contact with the crowd that you have to, in a way , persuade , or dominate, or get hold of , you know. For instance, the feeling at the beginning when the audiences arrive – they come from a dinner, they think about their business, the women observe the dress of other women, young girls look for good-looking young men, or vice versa – I mean, there is a tremendous disturbance all over, and I feel it, of course. But if you are in a good mood, you have the attention of all of them. You can play one note and hold it out for a minute – they will listen like they are in your hand, in a way , and this emanation cannot be done by a record. There, I am coming to the point. You see, it cannot be done at all by a record…

というわけで

アーサー王のお言葉は

グールドさんの心に

グサッツ

というわけですが

これから先は次回への

お楽しみ。。。

To be continued…

日曜日の匂いとPhono Museum – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

日曜日の独特な匂いって

ありますよね。

これに気がついたの

ウイーンに住んでたときでした。

ローマの日曜日もそりゃあね。

必ずsanto padre(ローマ法王の俗称)が

ミサをされますから

特別っちゃ特別なんですが。。。

でも空気は何だか

淀んでるんですね。。。ウイーンよりも。

あったかいからですかね(笑)。

つまりウイーンは寒いからでしょうか。

日曜日はちょっと違う。

土曜日もちょっと違う。

何故かというと

土曜とか13時になると全く店が開いてないんですね。

休むこと。

これすなわち文化です。(おー!かっちょええ!)

で。。。

ウイーンの日曜日

Un dimanche au Vienne

ってなわけで

日曜日はウイーンフィルの定期演奏会が

楽友協会にて

朝11時から始まります。

それもとても重要なんですが。。。

夜19時から

月一回

ORF (Österreichsche Rundfunk)

つまり日本のNHKですね。

オーストリア放送協会のラジオですが

夜の7時から月一回

PHONO MUSEUMってのをやるんです。

これがまた素敵なんですね。

歴史的な録音でCDになってないのを

放送協会のアルヒーフからとってきて

放送しちゃうんです。

そして。。。

ヒクーイ声のナレーターが

Gottfried Krausっていう人だと思いますが

ゴットフリート・クラウスさんね

素敵な声でコメント言うわけです。

そこで出会ったのが

例えばブッシュ弦楽四重奏団だったり

NHK交響楽団でもお馴染の

ロブロ・フォン・マタチッチさんのウイーン響との

ブルックナーの名演だったりするんですね。

あるいはブンダーリッヒの最後のリサイタル録音だったり。。。

そこに詞があります。

必ず出てくる言葉。

Stern Stunde

英語で「お星様一杯の時間」

素敵な時間っていうことですね。

音楽を聴くとこの「お星様」が出ちゃう

そのくらい素晴らしいってなわけです。

wunderbar musiziert(wouderfully played)

とか

So eine Interpretation ist heuzutage nicht oft begegnet

(The interpetation of this kind is nowadays not often met すげえ直訳)

is nowadays not casual…ってな感じかな。

そんなことを言いながら

ヒクーイ声で語るその静けさもまた

ウイーンの街に似合ったものなんですね

18世紀を大事にしてる彼らは

musiziert (play music)ってからには

出す音がウイーン風でなきゃいやみたいですね。

街に合った音。

街に合った食事。

街に合った服装。

そういう中にmusizieren という言葉が生まれてくるみたいです。

でもそこには日曜日の匂いが必ず介在する

musica profanaの前は

musica sacraだったわけで

いまこうやって書いてみると

日曜日の効用は

かなりあることに気が付きますね。

日本にもこれ

あるんじゃないですか?

日曜日はちっちゃな元日みたいな雰囲気って

ありますよね。

やっぱ日本って素敵ですね。

で。。。

長くなりましたが

ハーゲン弦楽四重奏団とジェラール・コセによる

ブラームスの弦楽五重奏曲お勧めです。

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Stern Stundeが

ピチカートのなかに聴こえてきますよ。。。

Affinityアフィニティ – Muranplanet – 指揮者村中大祐の世界 Muranplanet

指揮者というものは

自分の身体というフィルターを音が付き抜けて行く。

そのフィルターがある意味色彩につながる。

私の場合、やはりウィーンに住んだとか

東京外語大でドイツ語を専攻したとか

昔からドイツ音楽に親しんだとか

色々な要素はあったとしても

自分の身体と音の間にAffinityアフィニティ(一体感)がなければ

これはどうにもならないものだと思う。

一つ例を挙げると、イタリア人がロッシーニを指揮するのが上手いのは

彼らの身体にbrio(ブリオ華やかさ)のような粒子や波動があるためだ。

私は、それゆえに、ロッシーニは苦手分野だ。イタリア人のようなブリオは出て来ない。

因みにAffinityとは「親和性」と訳されるが、私はこの訳ではピントが合わないので

取りあえず「一体感」としておく。日本語のニュアンスはこちらの方が近い。

10月の公演で演奏するブラームスやシューマンは

自分の体とのAffinitiyが一番しっくりくる。

だから今まで数多く演奏して来た作曲家でもある。

でも多くの人はこれを「ドイツ音楽」と呼ぶかもしれない。

さあ、問題はここから。

果たして本当にそうだろうか?

Herbert von Karajan(カラヤン)という指揮者。

皆さんご存知の大指揮者だが

彼の凄さはどこか?

分析すると色々挙げられる。

1)発明家:スターシステムを生み出した(またこれについては書くとして)

2)演出家:光と影を用いて音楽を邪魔しない演出を心がけた(トスカニーニもマーラーもやっていた2足の草鞋だ)

3)実験好き:録音やヴィデオと言った最新の科学技術を音楽の世界に持ち込んだ

4)東洋好き:ヨガを自身の成長の糧とした(西と東のベクトル)

5)地中海的:実はギリシャ人の家系(カラヤノス)[→](つまり北と南のベクトル)

6)全部暗部で指揮した。オペラも。

7)若い人を沢山育てた

他にも沢山挙げられるが、今日はひとつだけ。

北と南のベクトル。

これを持つことはとても重要。ヨーロッパを知る上で大切なこと。

すべてのヨーロッパ知性はこの南北の対比の上に生まれたと言ってもよい。

カラヤンはギリシャの資質も持っていたのだろうが

生粋のザルツブルク・オーストリア人で、もちろんドイツ語が基本。

でも彼の話すイタリア語、フランス語は本当に見事だった。

戦時中ナチスの力を使いながらアーヘンやベルリンの歌劇場でのし上がり

戦後はそのために演奏禁止となって

40代半ばをイタリアのトリエステで観光通訳をしながら

生計を立てていたことはあまり知られていない。

だがこの時期に自分のレパートリーを拡充、確固たるものとし

突然ミラノ・スカラ座の音楽監督に就任する。

その時彼を引き立てたのはイタリア人大指揮者のヴィクトール・デ・サーバタ。

彼はトリエステ出身の大指揮者だったが、カラヤンを音楽監督に登用したのは

おそらく同じトリエステ出身の作曲家デ・バーンフィールド男爵だろうと思われる。

ここでカラヤンが得たものは何を隠そう「生きたイタリア語」である。

このイタリア語をできるようにすること、

それ自体が、自分の身体にある程度の可能性を与えることになるのだ。

これは南北のベクトルをカラヤンが非常に重要視した話だが、

東西のベクトルも彼は大事にしていて

ヘリゲルの「弓と禅」についても非常に詳しく

その禅的思想への理解は「音楽の深さ」へと繋がっていく。

チェリビダッケという指揮者も禅に関心があったが

やはり違ったベクトルを持つことで、幅が広がるわけだ。

指揮者はその身体を音が付き抜ける。

その時自分の全存在が、ある意味音のフィルターとして

微妙な色合いを重ねてゆくものである。

私の場合もイタリア語によってイタリアの色を得たことは

本来ドイツ・ロマンティックという時代の音楽を演奏するのに

大いに役に立った。

私の知る限り、殆どの優れた演奏家が5~6か国語を使いながら

この仕事をするのには、実は理由があったということだ。

今まではあまりハッキリと言わなかった。それは様々な人達への

敬意もあって、あまりハッキリとは語らなかったが、もういいだろう。

いくつかの言葉を使うことは、ある意味当たり前のことであって

できなければ、それだけ大きな損失になるということ。

だから若い音楽家に伝えておく。

語学は勉強するのではなく、できるようにするものだ。

私はそのお蔭で本当に多くの智慧と感性が与えられた。

できない人達からすれば、憎しみの対象になるかもしれないが

敢えて言っておく。若いうちに5か国語くらいやっておけ。

そうすれば後ですごく役に立つときがくる。

言葉は手段でしかない。されど言葉は大切だ。

Affinityを獲得するために、手段は選ぶな。

全てを学び、すべてを獲得せよ。

それしか他に成長する道はない。

技術に溺れ、技術や表層だけにとどまるなかれ。

自分の中にあるものと、音とのAffinityを探り

自分独自の音を探れば、きっと世界が認めるだろう。