【自然と音楽に必要なマインドセット】

From:村中大祐 (これは2017年9月18日のメルマガからの転用です。)

こんにちは!
物凄い嵐が過ぎて、今日はまさに快晴。
雲一つない空には
丹沢の山並みと富士山のシルエットが
見事にそびえています。

自然の猛威はまさに日本人にとって
要注意事項ですね。
今朝、近所の氏神(舞岡神社)の前にある田畑の
稲は多くが倒されていました。

自然と共に生きる人達の大変さを実感しました。

でも他人事ではないのが日本です。
台風一過と言っても
明日何が来るかは分からない。

危険と隣り合わせ。
そんな自然の猛威のなかで
日本人は逞しく生きています。
素晴らしいと思います。

そして、私もひとりの日本人として
日本のお役にたちたい。
そう思っています。

東北大震災の時、私は偶然海外にいました。
そこで考えたのが先日来お話している
「自然と音楽」のテーマです。

この「自然と音楽」について語るために
まずは私の日本人としての
海外生活でのマインドセットを
お話しておこうと思います。

私は演歌はあまり好みません。
でもフランク・シナトラやベニー・グッドマン、
ライザ・ミネリやビリー・ジョエル、
ブルース・スプリングスティーンやスティービー・ワンダー。
そう言ったアメリカの音楽が若い頃から好きでした。

ウィーンに留学したとき、朝から晩までハイドン、モーツァルト、
そしてヨーデル(スイス地方の演歌)がラジオから流れてきて
リズムがアメリカの物とは違うので
正直辟易していました。

そして、私たちは何ともアメリカナイズされているんだな、と
強く感じました。

日本は戦前・戦後を通じて
アメリカの影響を非常に強く受けましたが
それは占領されていたということですね。

でもその事実を心に刻んだ人が
現在どの位いることでしょうか?

多分、私と同じように、もう無意識レベルで
刷り込まれているのではないでしょうか?

私は20過ぎまで日本で育ちました。
その間、日本は高度成長を遂げ
バブルの時期に、
日本は世界一の大国の仲間入りをしました。

私の20年間の日本での成長過程で
一番感じていたのは
欧米に対する憧れのような感覚でした。

そこに疑問をさしはさむ余地は、
当時なかったです。

日本人にとって欧米は憧れ。
それが皆の共通の意識でした。

戦後はGHQと焼野原。
そこにギブ・ミー・チョコレートの話。
美空ひばりの歌を聴いて、元気を出したり。
常にアメリカの影がありました。

製造業が発展し、占領されたはずの日本は
アメリカを追い越すほどまでに。
1985年時までに飛躍的な発展を遂げます。

でも当時の日本人たちは
自分たちの内面の変化に気が付いていたでしょうか?

敗戦の劣等感から、「これは行ける!」と思ったのでは?

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」のような標語が
出てきたのも当時のことです。

でも私たち日本人の内面は
あくまで、「追いつけ、追い越せ」の中で
自分たちの立ち位置をみずから、
常に欧米より下に位置付けていました。

それはもう、物凄い劣等感です。負けた!というね。
違いますか?

そして日本人は「彼らのように」振舞うことを目指したのです。

けっして「自分たちらしさとは何か?」を
検証しようとはしていなかった。

クラシック音楽の世界も同じでした。

ある意味「お金の象徴」であり
ステイタス・シンボル、それが音楽です。

ロックやジャズとは違い
クラシックには「階級」のようなものを
感じる人が多かったはず。

でもレコードやCDによって大衆化が進み
日本は戦後からバブル景気の時代までに
ありとあらゆるクラシック音楽の頂点に位置する演奏を
お金のチカラで招聘しまくりました。

私もその恩恵に浴した世代です。

ラジオのちからも大きかった。
即時に世界中の名演奏が
日本に居乍らにして手に入ったのです。

でも一部の戦争を知る世代にとって
日本人は「劣る」ことに変わりはなかった。

欧米に比べ、立ち位置は常に「劣勢」でした。

追いついていても、まだ「追いつけ」と言っていました。
それを人は「戦争に負けた」からだ、と解釈していました。

私は日本人が諸外国に比べて劣勢だと思ったことは、
当時実は一度もありませんでした。

何故なら、戦争を知らない世代であり
豊かさを知る世代だからです。

そして、何より日本の中に流れる伝統の凄さを
何となく感じていたからでした。

昭和にはまだ、沢山の達人が其処彼処にいましたね。

犬も歩けば達人に当たる。
そんな感じです。

劣勢の中にいなかった私は、学生時代にこう考えました。

✔「音楽は精神の流れだ」

もしこれが正しいとすれば、
別に音楽の理解に、人種の違いや国籍は関係ありません。

✔「同じ土俵に立つことがどうやったらできるか?」

これが私の10代の命題となりました。

それには大切なプロセスがありました。

1.強いアタマを持つこと。器用にたちまわらないこと。
➡ 不器用こそ真なり。

2.人のやり方を真似ないこと。つまり「自分のやり方」を作ること。
➡ 自分の弱みこそ強みとする

3.常に「自分のやり方」を信じること。(これは後になって必要と感じまし  た。自分の方法論を持たないと、オリジナルではいられないからです。)
➡ 人の言うことに惑わされない。決定は自分でする。

私はこの3つだけを守ってきました。

そして、クラシック音楽の世界で、
常に欧米の人達と同じ土俵に立つための方策を考えました。

(To be continued)

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

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自然と音楽は「海」との出会いから。

From:村中大祐

南北問題。

あなたは経験したことがありますか?
日本は北東と南西に向かって長く伸びていますから
南北についてあまり頓着ない国のような気もします。

いかがでしょう?
既に経験済みという方いらっしゃれば、
是非体験談を教えて下さい。

多分おられないのではないでしょうか?

では質問を変えます。
海外経験者の方もおられるでしょうが
その中で、海外の南北問題を肌で経験されたことは?

私は長い間イタリアの首都ローマに拠点を置いていました。
その関係で、まずは北のミラノとの比較がありました。

でももっと言えば、北の国々との比較をしながら

「ああ、もう少し北に行きたい」と思ったのです。
その目標はロンドンでした。

そして2009年、意を決してローマからロンドンへ
拠点を移すことにしたのです。
ちょうどその年は日本で自分たちが創り上げたオペラの
最後の年であり、2010年からは横浜市が財政的に無理とのことで
(これは嘘でしたが)、私たちは日本での義務からある意味開放されました。
(私たちとは、私とミヒャエル・ハンペ氏のことです。)

そしてローマにあった荷物(20年分)を
ロンドンにまず送ることにしたのです。

2008年に車の免許を取得。これもすべて引っ越しのため。
出来ないと思っていたものが、手に入り、本当に驚きました。
40を過ぎた自分に免許が自分に取れるとは、到底思わなかったので
これをきっかけにして、全てをやってもうた、というところでしょうか。
翌年日本での義務から解放されて、遂に拠点移動に成功したのです。

ロンドンに移った私に、新しい考えがふと浮かんだのです。
それが「自然と音楽」のテーマでした。

ちょうど2003年の聖チェチーリーアの祝祭日に
「オーケストラを造れ」という声が聴こえたように
このテーマが生まれました。

すると2か月後、2011年の3月11日、
東北大震災が起こりました。

私はそれから3週間ちかく精神的にノイローゼ状態というか
「何か日本のためにしなければならない!」と思い詰めたのです。

日本を離れたまま、何もできないのが本当につらかった。
そして5月に突然、イタリアの国営オーケストラのひとつ
Orchestra Sinfonica Siciliana(シチリア交響楽団)と
追悼演奏会が実現します。

そしてテーマは偶然「海」でした。
先方のオーケストラが既に決めていたプログラム。
予定の指揮者がブラジルから来られなくなり
私にオファーが来たのでした。

これが最初の「自然と音楽」演奏会となります。
イタリア語ではNatura e musica
部分的には私がプログラムを少し作り変えて
ワーグナーの「さまよえるオランダ人」の序曲や
メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」を入れ、
ブリテンの「海の間奏曲」とドビュッシーの交響詩「海」
これらがプログラムとなりました。

そして最後の作品「海」を追悼とするつもりで
演奏前に聴衆にアナウンスしたのです。

「この作品を福島にささげます」と申し上げてから
ドビュッシーの作品を演奏しました。

すると目の中に飛び込んで来た音の残像はすべて
「自然の美しさ」でした。

音に表現された世界は、人間の自然への愛情でした。
それを改めて感じた私は、逆に音楽の果たすべき役割のようなものを
そこで感じたのです。

それが「自然と音楽」演奏会シリーズの始まりです。
音楽が内に秘めたメッセージ。
それらが自分の魂に語り掛けて来るような感覚でした。
(To be continued)

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

追伸:
この作品、ドビュッシーの交響詩「海」は
5か月後に、またイタリアで演奏します。
ドビュッシーの没後150周年記念公演で
Teatro massimo Bellini di Catania
カターニアのベッリーニ歌劇場にて
演奏予定です。

 

【選択と集中】

From:村中大祐

「選択と集中」というのは、言うは易しく行うは難し。

まあ、どんな分野でも同じだと思うのですが
「選択と集中」には
気付きのようなものが必要だなと思います。

今日はそんなお話です。

私は基本的に午前中は勉強の時間に当てています。
というのも、ここ数年Orchester AfiAの運営をやっていて
自分の持っているものを出すだけ出して
結果的に得られるものも多いのですが
やはり貯めていくものもないといけない。

私たちのような仕事は、常に勉強。

そして先10年、20年のヴィジョンが必要で
どこで何をするかを選び取る必要があります。

やりたい勉強はたくさんあります。

でも全部一辺にやるのは無理。
選ばなければなりません。

始めてみると、
最初のうちは沢山沢山引っ張り出して
机の上がいつもいっぱいの状態です。

それが時と共に絞られてきます。

夏はワーグナーを読み込みたくて、
色々工夫していました。
それこそ、付箋をいっぱい使って
ワーグナーの世界に没頭しました。

でも夜になっても片付かない。
午前中で終わりたいのに
なかなか目指す予定までできないのです。

それが段々に処理されていくようになる。

不思議なものです。
毎日続けていくと、苦手なはずの「選択と集中」が
自ずから出来上がって来る。

いっぱい散らかっていた机の上が
いくつかの重要な案件でまとまるようになりました。

午前中はピアノに向かい、大音響で弾きながら
オペラやシンフォニーを弾く日々が続きました。

ちなみに昨日「奥義」について書きました。
http://kurashikku.jp/
ちょっと難しいです。

私は23歳のときにウィーンに渡りました。
その時にどうしてもやりたかったことがありました。
それはゲーテの「ファウスト」を原文で読みたかったのです。

知り合いに紹介してもらい
現地の老婦人の御宅に
この「ファウスト」を習いに行きました。

毎週1時間でしたが
ドイツ語だけなので、半分寝てました。
分からなかったんですね。当時は。
何がなんだか。

でもそうやって習ってみると
身体に身に付くものもあります。

そして日本の大学時代には
ずーっとドイツ歌曲の仕事をしていました。

だからピアノで歌曲の伴奏をすることは
ある意味専門となり
ウィーンでも随分仕事をしました。

歌曲のリサイタルの伴奏者なんかも
当時はウィーンで引き受けておりました。
シューマンのいくつかの連作歌曲集や
シューベルトの「冬の旅」はお得意でした。
これは祖母や母から受け継いだ伝統です。

母の師匠の佐々木成子さんは
今年98歳で他界されましたが
ドイツ歌曲の戦後日本の第一人者でした。
また関西では笹田和子さんの弟子でしたから
ある意味ドイツ語の歌の伝統に
日本に居ながらにして
触れることができたのです。

でもドイツ歌曲というのは極めて特殊な世界です。

クラシック音楽の世界のなかでも
特にオタクな世界と申しましょうか。

こういった世界に触れていたことが
今ここになって私の人生に大きく生きてくるとは
正直思いませんでした。

歌曲は作曲のひな形なんです。
つまり全ての本質とも言えます。
そこにドイツ語が絡んできて
ドラマを形成する。

まさに3分版のワーグナーのオペラですね。
それを延々と勉強してみた経験は
何にも増して今、栄養になっているんです。
どう栄養になっているかは
いずれ書いてみます。

まあ、歌曲をやること、これも選択なんです。

私は仕事としてピアニストを選びませんでしたが
でもピアニストを目指したことで
得たことが歌曲以外にも
本当に沢山あります。

現代では殆どの指揮者は、世界的に見ても
指揮者になりたい人がなっていますし
ピアノが上手い指揮者というのは居ても
ピアニストから指揮者になった人は少ないです。

指揮者でピアノが上手い人と
ピアニストから指揮者になった人は
全く意味が異なるのです。

サヴァリッシュやアシュケナージ、エッシェンバッハやバレンボイムは
ピアニストから指揮者になりました。

実は師匠のマークもそうでした。
フルトヴェングラーやコルトーの指揮でピアニストとして
デビューしています。

アッバードも同じくピアニスト志望でしたから
フリードリッヒ・グルダの下で一緒になった
マルタ・アルゲリッチに適わないと思って
しょげていたアッバードに
グルダが「指揮者になれば」とアドヴァイスしたのです。

そう言う意味で言うなら
彼らは特殊な感性の人達です。

彼らが指揮者になったのは、
「音楽的な必然」からなったのです。

そこが普通の指揮者とは少し違うところでしょう。
普通の指揮者は「指揮がしたい」から成るのです。
そこはかなり違うと思います。

指揮というものは習うものではありません。

自分の「音楽的な必然」が
身体から湧き上がってきて
それを相手に伝えることで
指揮者として立つことができます。

響きをどのように扱うのか。
空間がどう構成されるのか。
その中にどのような理念から論理を構築するのか。

そして場のエネルギーをどのように理解し
それを音に結び付けて表現するのか。

皆がそれぞれに、自分の語法を持ちうるのですね。
だから習うことはできない。
むしろ自分で発見したもの以外
役に立たないと言ったほうがよいでしょう。

だから最初は誰でも指揮くらいはできるのです。
でも後からジワジワと違いが出てきます。
その時に「感性」の勝負となるのです。

そして「何を発見したか」が求められます。

これら、全ては選択と言えます。
何と何を選択し、それらを組み合わせて、どこへ向かうのか。

先が長いだけに、音は選ばなければなりません。
さもないと、いい加減な音に惑わされて
本当に欲しいものが見つからなくなる。

選択と集中とは、そう言う意味なのですね。
本当に何を表現したいのか。
本当は何をやりたいのか。

そこに行きつくような気がします。
これは、分かれば実現できます。
全てのエネルギーをそこにぶち込むだけです。

人間、命懸けでやれば
大抵のことは叶います。

でも選択ができない。
捨てられない。

毎日の生活で、何を選ぶのか。
何を食べるのか。
誰と過ごすのか。

そう言ったことがすごく大切だと
改めて感じています。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐
(すまん。ちょっと難しい話してもうた!)
(ホンマはもっと難しい話したかった!)
(また、今度!)