私の仕事についての考え方

音楽家は見えない世界にアクセスすることができる。

昔よく朝礼で言われていた「想像力」ってやつを使うわけだ。

でもこの「想像力」って言葉、最近とんと聞かれなくなった。

昔は当たり前のように、この「見えないちから」を大切にする習慣があった。

もちろんエネルギーだって見える感じがするし、

相手の思いについても、指揮者だとオーケストラの人が何を思っているか

何となく分かったりする。

でも、それは別に難しい話じゃない。特殊でもない。

日本人にとっては、至極当然の、当たり前のことだったはずだ。

でもコンピュータの発達だか何だか知らないが

この「想像力」っていう「見えないツール」を使うことが

何だか凄く特殊に思えて来た。

なぜだろう。

楽譜があっても、実は音を出さないというか、

出せない指揮者だから思う事だろうけれど

演奏会の曲の準備をするとき、最近は殆ど音を出さなくなったように思う。

まるで本を読むように楽譜を書棚から引っ張り出し、

頭のなかで、自分の音にまつわる感情や思いを明確にして

オーケストラの前に立つことが殆どだ。

その準備期間には、昔だったら真っ先に聴いたはずの録音も、

まったく聴かなくなった。何千枚もあるCDが泣いている。

全く音というものを出さず

出すとすれば頭の中だけでガンガン鳴らす。

そんな私を家族は不思議そうに眺めてる。

横で見ている愛犬は、私が発狂したかと思って眺めているのではないか。

そんな風に感じるくらい、私の準備作業たるや、音がまったく出ない。

分からなくなると、もちろんピアノに座り、一通り弾いてみたりする。

でも大切なのは「何を弾くか」じゃなく「何を聴くか」でもなく

そこに「何を見るか」。

弾いていると残念ながら見えてこないものが多すぎるから、

楽譜を置いて、ただ頭のなかで夢想し、音を鳴らし、

ただひたすら「見る」作業をするのだ。

そうすると色々なものが見えてくる。

街とか自然。情景とか感情とか。

時には農夫たちが小躍りするような場面も見えたりする。

大抵一人の作曲家について書かれた文献を20冊くらいは用意していて

(なんて言いながらラフマニノフやシベリウス、スクリャービンなんて、

昔は殆ど書籍がなかったけれど、最近は随分増えたからありがたい。)

そういうのを読みながら、基本は自分でプログラムノーツを書き

絶対法則なんてのを作って、お客さまにお送りしたりする。

でも全ては「見えないもの」を、会場で「見てもらう」ためにやっていること。

感じて欲しいから。でももっと言えば、幸せになってほしいから。

書き終わった後は、2日くらいの練習、多いときでも3日の練習。

イギリスなんて1日の練習で本番。

じゃあどうやって練習するのか。

楽譜に見つけて来た私の「宝物」を、オーケストラの前に体ごと持って行き

何も言わずに自分が「見たいもの」を見るべく音楽を始める。それだけ。

講釈は一切なし。まずピアノを弾くように音を出すことから始める。

そうすると空間が響き始める。

気が付く人も、気が付かない人もいる。

でもAfiAの人達はアンテナがスゴイから、何か感じるのかもしれない。

そう思いたい。でも語ったりはしない。

そんなオーケストラの仲間から見えてくるものがある。

それは波動。あるいはバイブレーション。

別に怪しいイカサマを言っているつもりはない。

バイブレーションの高いものがくれば良し。

低いものなら改善する。そこで初めて語ることにする。

それは全てが自分の思った通りでなくていい。

目の前で演奏をしてくれる仲間がいて、彼らが持ち寄った宝物がある。

そんな彼らがくれるものの中から、飛び出して出てくるものも、

自分の当初のヴィジョンと一緒に、重ね合わせて見ながら、考えたりもする。

でも怖いのは、考えたりしていると、彼らから文句が出てくるわけ。

だから家で楽譜を置いているときに、自分の仕事、つまり考える作業は終わらせておく。

そうすると、彼らの前では考えずに始めることができて、

ある意味「無心」に近い状態、つまり「状況を受け入れる」だけになる。

そうやって彼らが出してくれる音を受け止めながら、

ある一つの世界観が生み出されていく。

すべては按配の世界。

でもそれでいい。

場の共有から生まれる真・善・美。

そこに様々な色付けがされるが

自分があらかじめ楽譜から喝破した世界と違ってくれば、

手直しはただひたすら、音楽用語で行う。

基本フォルテとかピアノ、もう少し長めに、とか言うだけ。

理屈なし。でもイメージはたまに伝える。そうするとガラッと変わる。

だから面白いなあ、と思う。

でも言葉で伝えると、前に居る仲間の音の生気というか、

「たましい」みたいなものが失われることも多い。

指揮者が指摘したせいで、ドツボにはまることが多い。

だから慎重に言葉は選んで、なるべく遠まわしに言う。

そういう意味では、私の言葉は分かる人には分かるが、

分からない人には分からない。

でも分からないと、仲間があちらから近づいて来てくれたりする。

それもまた、嬉しい。

でもおそらくだけれど、あまり分からない方が、相手の力が発揮される。

でも相手は私がそう考えていることを知らない。

それでも協力してくれる人達が居ることを

私は誇りに思うし、幸せに思っている。

そうやって今までやってきた。

これは私の矜持みたいなものだった。

これをやると、外国では当たり前のように受け入れてもらえた。

というか、そういうやり方を師から学んだように記憶する。

私はある時期までコンクールを随分受けて来た。

それなりに賞も頂いて、頭にのっていたが

結局イタリアの劇場で修行が始まると

指揮者に必要なものが何なのか?正直わからなくなったことがある。

非常に恵まれた環境だった。

まだ往年の歌手たちが舞台で残って獅子奮迅の活躍をしていた90年代。

いろんな人たちに会ったが、皆同じ「におい」を持っていた。

それは今思えば、芸術という、あるいは音楽という

「わからない」ものへの敬意だったように思う。

ギリシャ的な哲学や美学の前提となる真善美を云々する前に

心得事として覚えておかねばならない、

極めて大切な条件があるように思う。

それはソクラテスの言った「無知の知」である。

わからないもの。つまり真理。

真理の前には畏敬の念を持つべし。

私はノーベル賞を取った人達に共通する意識だと思う。

私たち日本人は、すごく一生懸命な国民だから

みんなで自分や周りに厳しくし過ぎるきらいがある。

そんなとき、ゆるーい枠組みを作っておくといいかもしれない。

私が日本に帰ってきたとき感じたのは、厳しさ。

でもそれが何か新しい価値や、優れた場を生み出すとは

到底思えなかったし、今でもそれは繰り返されていると思う。

例を挙げればきりがないくらい、毎日毎日ひとの厳しさが招く矛盾が表面化している。

そのためには、新しい空間や場、価値をもたらす活動が必要で、

それを続けるためには勇気と智慧、そしてもちろんお金も必要だ。

そして協力してくれる人達に恵まれることは更に重要。

2011年以降、震災による価値観の転換が日本を中心に起こったのは

偶然じゃない。

そこに意味を見出しながら歩いていくと、

同じ考えの人達にずいぶんと沢山出会うことができた。

皆が自分のミッションを考え始め、

家族を大事にし、感謝をし、

そして地球に住む人が全て繋がっていて

みんなで互いを大切にし合う意識が

突然表面化してきたように見える。

A.I.が出てきて仕事がなくなるとか言う人が多いなかで

私が仕事について思うのは、

皆がそれぞれに果たすべき役割を持って生まれてきていて

その役目に気が付くチャンスが遂に来たということだと思う。

テロや自然災害の意味。

技術力の発展の意味。

地球温暖化の意味。

そして自分の存在の意味。

そういったものが、毎日の生活の中でクリアになってくると

仕事の質や目的が変化してくる。

目の前で完璧を目指す、と人は言うが

「何のために完璧を目指すのか?」を問う人は少ない。

完璧はわかりやすい。

でも完璧では不完全なのだ。

自分を出て空に飛べ。

空から自分を見てみろ。

そうすれば、自分の立ち位置も見えてくるはずだ。

そんな自戒を込めたお話。

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