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指揮者の交渉術⑥「ヨーロッパの街の音とオペラの粘着力」

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From:村中大祐

私はどちらかと言えばオペラはキライでした。
長ったらしいし。
そして未だに思うのは
まるで「巨人の星」の名場面のようだと。

ピッチャーの星ヒュウマと
天才バッターの花形ミツルの対決となれば
いつも一球を投げるのに
10分かかりますよね。

目のなかでトラが吠えてみたり
それに龍が応戦したり。

そういう「長ったらしい」のが
昔は嫌だったのですね。

日本に長く住んで居ると
特に最近、韓国や中国に対する
かなり厳しい差別意識がありますが

ヨーロッパに居ると
中国人から間違って中国語で話しかけられることは
もうちょっ中でした。

実際に音楽をやってみると
どちらかと言えば
私たち日本人はヨーロッパ人よりも
韓国人や中国人に感覚が近いですね。

それは亜熱帯的な気候のせいなのか
地理的な理由なのかわかりませんが
表現が「濃い」のです。

世界から見ると
そういった共通点も見つかって
互いの見方も変わるのではないかな。

そんなことを思う今日この頃です。
今日はオペラのことについて
もう少し踏み込んで書いてみました。

街の音とオペラの表現って
やっぱり関係あるんですよ。

こちらからどうぞ!

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From:村中大祐

私はヨーロッパの街の音が好きだ。
オーケストラにはその街の音が
好むと好まざるとに関わらず
一杯に詰まっているのがわかる。

そういう感性を持って生まれたようだ。

だからヨーロッパでも北の方に行くと
例えばブリュッセルの音などは
すごく暗いし薄い感じがある。

それは街の雰囲気にも表れている。

オランダはまた逆にきめが細かい。
そんな中で豊穣とした音の響きが生まれたりする。

音によってその時代時代の街の特色が
はっきりと伝わって来るというわけだ。

イギリスで初めて指揮したオーケストラは
ロンドン・フィルだったが
手慣れた感触だった。

実はこのオーケストラの来日公演を
ちょうど東京外語大時代に
サントリーホールで聴いていた。

クラウス・テンシュテットの指揮で
ワーグナー作品などを聴いたが
その時も「手慣れた」という感覚があった。

これはつまりどういうことかと言えば
「もう少し肌理の細かさが欲しい」
という感じだったように記憶している。

数々の名演を残したテンシュテットとロンドン・フィル。
89年か88年に聴いた時の印象は
それから約10年後に自分が指揮台に立ってみると
やはり同じような感触はぬぐえなかった。

オーケストラの音とは、実はそのような
実に「曖昧な」ものだと言っていい。

但し、その国や街の違い。あるいは指揮者との
組み合わせによって、今の街の様子まで
結構手に取るようにわかるものなのだ。

グラインドボーン音楽祭はモーツァルトの殿堂。
かつてフリッツ・ブッシュというブッシュ兄弟の指揮者と
カール・エーバルトというドイツを代表する演出家を
ロンドンの南西部のグランドに招いて
鉄鋼王のクリスティーがオペラ歌手の妻のために
プライベートに創り上げた歌劇場。

30年代のモーツァルトの録音がいずれも名盤になっており
モーツァルトを演奏の金字塔となっている。

21世紀に入るとオーケストラ・ピットには
Orchestra of the Age of Enlightenment
いわゆる「啓蒙主義」オーケストラが
古楽器によるピリオド奏法を用いて
グルックやウエーバーのオペラ作品を見事に演奏し

共に舞台下を守るロンドン・フィルも
現代楽器ながら流行のピリオド奏法を用いて
これに応戦する。

私が出演した2002年のグラインドボーンは
90年代のカラヤン死後から登りつめたピリオド奏法の
ある意味頂点が英国やヨーロッパを支配していたと思う。

実は私もイタリアでその文献的な検証を行うために
かなりの時間を割いていた。
ジェミニアーニやタルティーニ、もちろんレオポルド・モーツァルトやロカテッリの文献を集めて
実際の現場に応用できるか考えてみた。

だがしかし。

問題は本質論だった。

自分がオペラを本格的に学んだウィーンや
イタリアの歌劇場では
何が一番大切にされたか?

それは小手先の目新しさではなく
「オペラ」をどう表現するか?だった。

確かにピリオド奏法(時代考証をして
モーツァルトを演奏するなら、
その時代の弓の使い方やヴィブラートを検証して
演奏法に取り入れる奏法。ピリオドはPeriod、
つまり時代、時を示す。)によって
テンポや表現力が高まる「場合」もある。

スタイル(様式)を感じられるようになり
手垢にまみれた旧態以前とした
演奏方法を刷新する大きな契機となったことは
否めない事実だ。

だが「本質」とはスタイルでも学問でもなく
「何を表現するか」だ。

つまり「議論の場」にモーツァルトを引っ張り出すには
役だったわけだが
本当に何を伝えるか、については
「How to」が際立つあまり
伝えたい核となるものが見えなくなってしまう。

何事も陰陽であり、極まれば転ず、というわけだ。

私が最初にお話した、街の音を思いだしてほしい。

ブリュッセルにはブリュッセルの、アムステルダムには
アムステルダムの音がある。
そしてロンドンにはロンドンの音がある。

私がロンドンの音と対峙したとき
「薄い」と思ったのは事実だ。

それまでドイツ語圏やイタリア語圏のオーケストラの音に
慣れ親しんで来たためか
イタリア語で舞台上でモーツァルトのドラマが進行するなかで
そのイタリア語に音の薄さが合わない違和感があった。

必然的に私はドラマ性をオーケストラに要求した。
それが時代に即応したかといえば
Nonだったわけだ。

「ドン・ジョヴァンニ」にはNon ti fidar, O misera!
という見事に美しい四重唱がある。
あるいはアンナの素晴らしいレシタティーヴォとアリアがある。

このドラマ性をピリオド奏法だけで
「こなす」ことはしたくなかったのだ。
それはモーツァルトのこのオペラに対する
敬意とでも言えるものだ。

2017年の今思うことは
世の中がピリオド奏法と言わなくなった事実だ。

何とも無責任な。
しかしながら「議論の場」ができて
スタイル(様式)についての見識が深まったことは
評価できることだと思う。

だがあくまでも「薄い」ものには味付けを、
「辛い」ものには何か対抗策を、
そう考えるのがシェフの妙技というもの。

常に自分が考えるベストに
焦点を合わせることができるかが
勝負なのだと思う。

こうしてロンドンの4年後のデビューまで
自分の音探しは続いたのである。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

追伸:ドン・ジョヴァンニがオペラ・ブッファ(喜歌劇)の部類に入ることはご存知だと思う。だが歴史上誰もが、このオペラの「デモーニッシュ」な魅力に取りつかれていたのが事実だ。
ペーター・マークとかつてこの議論をしたことがあるが、マークに言わせれば「ダイ、ドン・ジョヴァンニは簡単。音楽に任せておれば良いのだよ。」とはぐらかされてしまった。また「自分で考えろ!」ということか、と思ったが、そうしたらヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場でマークが指揮した「ドン・ジョヴァンニ」の録音が復刻されて、プレゼントしてくれた。でもその時に言われたのは「コジ・ファン・トゥッテが一番難しいんだよ。その構成といい、ドラマ性といい、何もかもが難しい。コジができれば、他の全てのオペラができると言ってもいいくらいだ。」そう語っていた。

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