指揮者になる法②「Affinity 特別なマッチング」

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From:村中大祐

マッチングと言えば
まるで男女の話みたいですが

そうではなくて
私たち音楽家には
やはり得意、不得意な曲ってのが
あると言うことなのです。

それをマッチングという言葉で
表現してみました。

音楽の世界ではアフィニティというんですね。
イタリアでは「特別なアフィニティ」と言う表現を
良く使います。

私はモーツァルトの演奏を昔から
ピアノにおいては得意にしていました。

でも軽やかさが出ないのです。
指揮者のリッカルド・ムーティは
モーツァルトの音楽を
「フェラーリに乗って颯爽と走り去る」と表現します。

でも私にはフェラーリの感覚とは少し違うように
モーツァルトの音楽を意識しています。

その辺でしょうかね。
師匠はモーツァルトが天才的に上手で
あのフルトヴェングラーが
「お前、どうやってモーツァルトを指揮してるんだ」と
言ったくらいですね。

デュッセルドルフ歌劇場でフィガロを振ったマークに
フルトヴェングラーがそう言ったと
本人がよく話してくれました。

ですからそんな天才のモーツァルトから
モーツァルトを盗んでやろう、と思ったのです。

でも1ミリ違うんですよ。
微妙に違う。
その違いを同化してみて分かったのです。

そして自分と音楽の関係性について
随分考えました。

一体自分は音楽家として生きて行くのに
何を拠り所にしたらよいのか?

今日もそんなお話。

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自分の目標とする人や
メンターに同化してみたことのある人なら
分かることかもしれないが

これは非常に危険を伴う作業だ。
下手をすれば同化した後に
そこから抜け出せなくなる。

これも自分次第。
つまり同化した後に
同化した相手を「超える自分」を見つける必要がある。

私の同化へのプロセスは20代半ばから後半にかけて。
師匠が倒れた日に指揮した魔笛は
開演2時間前に言い渡された代役であり

自分を出す余裕などなかったはず。
でも私は「自分を表現する」道を選んだ。

何故ならそれまでに検証済みの事実として
いくらペーター・マークのモーツァルトを真似てみても
同じテンポをどうやっても取れないからだった。

私は勝負の時が来たと思い
自分の身体が流れるままに指揮をしていた。

批評家には「Luce e ombra, orfano di Maag」と書かれた。
つまりマークの孤児たち、その光と影。

若い歌手たちと共に舞台に立ったわけだが
彼らが影となり、私が代役に立ったこともあり
当然乍ら光と表現された。

そこで書かれていた評は「音楽が自然な流れの中で表現され」
というセリフだった。

このセリフはその後でも同じように
私の特徴となった。

「特別なことはしない。音楽の内部から浮かび上がる要素を
大切に表現する」

そんな感じだろうか。
まだコンクール優勝から1年ほどしか経っていないなかで
私ができることと言えば
出来る限り「自分の音」を表現する以外に
残されているものなどなかった。

指揮する度に自分を発見する。
その連続だった。

自分とは何者か?
自分には他と違うどんな特性があるのか?

そんなことを必死に問い続けながら
毎回勝負と思って指揮していた。

守破離と言えば聞こえはいいが
メンターに同化した後に残された
自分の「拠り所」と言えば
ある意味「自分の癖(くせ)」しかなかったわけだ。

この癖(くせ)には色々あるが
私がよく教えているのは
自分と作品のアフィニティ(Affinity)だ。

これは「好き嫌い」とは関係ないもの。
例えば私の大の苦手と思っているロッシーニは
指揮してみると意外に悪くない。
だがイタリア人が醸し出すBrio(ブリオ:輝き)には
到底及ばないように思ったりする。

これは毎日の食事や身体のオーラと関係する。
そしてもちろんスピリット。

ロッシーニが得意な人間がワーグナーを指揮すると
どうしても響きが軽くなる。(クラウディオ・アッバード)

ラテン語系の言葉を母国語とする人間が
ベートーヴェンを演奏すると
どうしても論理性が欠けて聴こえるため
批判の対象となる。(アラウ、バレンボイム、アルゲリッチ)

ちなみにベートーヴェンの演奏について
ルービンシュタインも若い頃はこう言った批判を受けていた。
それも彼のラテン的な特質のせいかもしれない。
ポーランド人であることは承知してはいるが。

アフィニティとは面白いものだ。
指揮者の場合、身体を響きが通り抜けていく。
その際に自分仕様の響きとなっていく。

それをああだ、こうだ、言っても始まらない。
それこそが自分の響きだからだ。

優れた演奏家は、それを知性でコントロールできる。
因みにここで言う知性とは「論理性」である。

技術ではなく、構造や論理を響きのなかに加味することで
独自の世界観を呈示しようとするわけだ。

つまり技術的なことには限界があって
ある一定以上の世界に駆け上がってみると
もうそこからは「技術を超えた」領域となる。

まさに感性や知性の世界観なのだ。

アフィニティとは身体のオーラと作品のオーラが
うまく「マッチング」するものだ。

それを技術で云々してもどうにもならない。
生まれつきのものだからだ。

私は「同化」の後、この「マッチング」で
作品と自分の対話を始めて行った。

すると面白いことがわかった。
自分は日本人だということ。
そして日本人であることは
非常に大きな強みだった。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

 

 

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