【超弩級の音楽のはなし】

どうも。村中です。
音楽を聴くという作業は、時として雲を掴むような話になりますね。
現実にはそこに存在しないもの。
音というのは消えてしまうわけですから。

 

 

皆がその「消えてしまう」現象を、
ああだ、こうだと言うわけです。

 

 

でもまずはあなたに私が言えることが
たった一つだけあります。
よーく覚えておいてください。

 

 

「あなたは正しい」

 

 

それだけです。
私の意見があるとしたら、それだけです。
あなたは正しいのです。

 

 

何が正しいのか?

 

 

あなたが「感じたこと」が正しいのです。
あなたが感じたことは、あくまでも「あなた」を測る物差しです。
感じたことが「あなた自身」だからです。

 

それは如何様にも変容します。
あなたの感じ方、感性の度合いによって変わるのです。

 

つまりあなたの感じ方は
「なーんだ、その程度かい。」とも言えるし
「へい旦那。こりゃ相当なレベルでんな。」とも
言い換えられるわけです。

 

 

その位、音楽っちゅうのは、
「見えないお蔭で(せいで)」
得もするし損もするように出来ているわけです。

 

 

私は彫刻や器が好きです。
絵画より3次元が好きなんです。
手触りや感触があるわけだし、四方八方から眺められる。
それが醍醐味です。

 

 

茶碗には宇宙を感じることがあります。
これもいつもではないですけどね。
日本人でよかったな、と思うのは
てひねりの器を見るときですね。

 

 

そこにシンメトリー(線対称)ではない美しさを感じます。
そこに私の音楽へのヒントがあります。

 

 

音楽っちゅうのは、たいていA-B-Aというカタチになっています。
それが基本です。最初にメロディーラインが来て、その後に違う対旋律が来る。
そしてリフレイン、つまり最初のメロディーに戻るんです。

 

 

どんなポップスも、ジャズも、
もちろん基礎となるクラシックも
ロックもみんな、このA-B-Aです。

 

 

つまり線対称なんですよ。
これ、考えたことありますか?

 

これが私が「音楽のカタチ」を考えるキッカケになりました。

 

それまでの私は独学でピアノを弾いていました。
音楽を勉強するのを禁止にされていたおかげです。
自分の家の中では好き放題に音楽ができました。
その時、私の心の拠り所は
「音楽とは精神の流れだ」という思い、感覚だったんですね。
ところが大学の2年の時に
当時大好きだった女の子に誘われて京都に行ったんですよ。
その子に樂美術館に連れて行かれた。
そうしたらもう、女の子は可愛そうに。
私に3時間くらい放っておかれたんですな。
常設展だったんですが、ちょうど当代の樂さんまで
長次郎の黒樂や赤樂から現代までの変遷が
展示されていました。
私、その様子、今でもアタマの中で再現できますね。
本当に強烈なショックだったんです。
あれは、シーレの展覧会よりショックだった。
そこで悟ったのは、「ひょっとしたら音楽にもカタチがあるかもしれない。」
これです。
その後に出会ったファッツィーニで爆発しました。(笑)
いてもたってもいられなくなった。
どうやら二人ともローマがお好きだったようで。
樂さんとはローマで初対面しましたし
ファッツィーニは他界していましたが
弟子たちに引き合わせてもらいました。
そう言う訳で、音楽にはカタチがあることを
ある日、悟ったわけですね。
そこであなたにも手捻りの器を見て欲しいんですわ。
これは線対称をデフォルメしたんですよ。
でも殆どの作品というか
人間の創るものは、これなんです。
つまり左右対称なものを崩すわけです。
そこに人間は意味を感じるわけです。

 

 

Formフォルム(カタチ)が
de-former デフォルメされる。
カタチが崩されるワケですね。

 

 

もっと分かりやすく見てみましょう。
うちのゴジラは線対称です。
でも私がゴジラをデフォルメしたら
こうなりました。(笑)

 

これはもはや線対称ではないのです。
実はヨーロッパは線対称が多いんです。
シェーンブルン宮殿とかが良い例です。
磁器も線対称が多いです。
それは邪魔にならないんですよ。
そこが特徴です。それをどうやら美しいと思うらしい。
私はこういうの、キライですね。
美しいとも何とも思わない。(笑)
ビックリもしない。
ちょっと可愛そうな気がします。

 

ここ重要なんですよ。結構。

 

 

音楽ってのは邪魔しなければ
つまり、人間の愚かさが入らないと
完璧なんでしょう。

 

 

それを美しい、と思う人もいるんです。
でもね。。。

 

それでは人の感情が動かないんです。
私の師匠はフルトヴェングラーの弟子で
ペーター・マークという人でした。
彼と随分話しをしましたが
彼は古楽器奏者がキライでね。
Da gibt’s ja kein Fleisch und Blut…
いつもこう言うんですよ。
つまり「血と肉がないじゃないか。」って。
ヨーロッパのシンメトリー(線対称)って
実は非常に即物的なわけです。
即物的って、つまりカタチばっかりでツマンナイ、って意味ですよ。
でもそこに人間の手が加わるわけです。
神じゃない。人がやるものだから。
血と肉ですね。
その血肉が加わると、人の感情が動き出すわけです。

 

つまり人間の愚ってやつが
人を感動させるんですな。
それを彫刻が教えてくれる。

 

 

私は絵画という平面では
ピカソより後の、いわゆる3次元が2次元(平面)に持ち込まれた世界が好き。
基本的に絵には手触りを求めます。
そういう作家さんがいるわけですよ。
そういう感覚を私は何とか語りたいと思っているんです。
さて、これだけの前提を元に、昨日いただいたコメントをお読みください。
素晴らしい話です。私の師匠の師匠も出てきますよ!

 

【我が国は、こと音楽(芸術)の分野だけにとどまらず、
優れた日本人を評価(認定)するのに、
外国からの逆輸入によってという現象をしばしば目にします。
また、クラシック音楽の指揮者についていうと、
カラヤンとバ-ンスタインを足して2で割ったような指揮をするタイプが多く見られたような気がします。
この大衆受けのする2大指揮者が物故して30年近くが経つ今日においては、
さすがにこのタイプは少なくなっていると思いますが、
その精神の根底にあるものは変わらないように感じられます。
私は、近衛秀麿の晩年(1970年?)、
このマエストロを囲む小さな集まりに参加したことがあります。
まだ、ヒトラ-Nazisがドイツの政権を獲る前の
1930年前後のベルリン(ヨーロッパ)楽壇の興味深い話を沢山聞かせてくれました。
私が今でも鮮明に覚えているのは、
フルトヴェングラーの話題が終わった後の次の言葉です。
「今どきの指揮者ときたら、“額縁”の中での指揮(演奏)しかできませんからね!」】

 

最後の額縁の中での指揮、という言葉。
これを分かってもらうには
上記の話が必要だったわけです。
日本人ってのは、「本来なら」西洋の即物的な感覚から
手捻りに進化した、いわゆるアップグレードされた考え方ができるはずなんです。
私はそう信じているんですけどね。
なかなかそうはいかないみたいなお話だな。こりゃ。(笑)
今日も素敵な一日を。
村中大祐

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