世界で活躍するオーケストラ指揮者が語る「ボーダーレス時代のリーダーシップ」②-3

前回からの続きです。

ドイツ人指揮者の「お前たち日本人にわかってたまるか」という発言は、実際にはヨーロッパで普通に語られるものだったのです。

それから数年経った時期、ローマに拠点を移していた私は、ある有名な国際指揮者コンクールの最終審査の対象3人の中に、100人以上の指揮者から選ばれました。その審査が終わると、1人の審査員が私のところに寄ってきて、「貴方は本当に日本で生まれたのか?」と訊くのです。私が「23歳で大学を卒業するまで日本に住んでいました」と言うと、「あり得ない!」という答えが返ってきました。

その審査員はフランス人で、私が指揮したフランス音楽、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」を聴いていたく感動してくれたらしいのですが、そのリアクションが「貴方が日本人であるわけがない! きっとイタリア生まれの日本人だろう?」でした(笑)。「貴方がリハーサルで話していたイタリア語は日本人離れしているし、音楽の語法が他の日本人音楽家のものとまったく違う。こんな日本人には初めて会った」などと言ってくれました。

最初、褒められたと思って嬉しく感じたのですが、よく考えてみれば、この審査員の言葉の裏にあったのは、「日本人は外国語が下手だし、日本人の音楽の語法は独特だから受け入れられない」という見方。明らかに私たち日本人に対する負の先入観があったのです。つまり、先のドイツ人指揮者とこのフランス人審査員は、基本的に同じ意見を持っていたのです。

――日本人の音楽家が当時のヨーロッパで一般的にネガティブな先入観を持たれていた、と?

村中 実はしばらくして、こんなことがあったんです。ローマの自宅で聴いていたイタリア国営放送(RAI)のラジオ番組で、ある日本人ヴァイオリニストのリサイタルが放送されました。解説者はイタリアでもトップクラスの批評家で、よく新聞の文化欄で署名原稿を目にする有名な方でした。
ところが、彼がその日本人ヴァイオリニストを評したのを聴いたときは愕然としました。彼は演奏を聴き終わると、こう早口にまくし立てたのです。

「日本人といえば、非常に機械的な演奏をすることが多いが、このヴァイオリニストもやはりどこか音楽の表層ばかりを追っていて、確かに技術的には申し分ないものの、音楽の本質的な部分に迫っていないような気がする」
ドイツ人やフランス人だけでなくイタリア人の意見も同じなのか、と思って私は驚きました。「日本人にベートーヴェンはわからない」という見方はヨーロッパ人の共通認識だ――。それが私の検証結果となったのです。

そこで私は自問自答しました。ヨーロッパ人が言う「日本人との違い」とは何なのか? 彼らネイティブスピーカーのようにヨーロッパの言語が見事に操れれば、それで話は終わりなのだろうか? その言葉を駆使してヨーロッパの文化と伝統についての理解が深めれば、彼らの言うベートーヴェンの本質に近づけるのか? あるいは、ヨーロッパ人が好んで語る「音楽のスタイル」や「音楽語法」を努力によって身に付ければ、本当に同じ土俵に立てるのか?

――そう考えると、窮地に立たされるような感覚になりませんか。日本人にとって何もかも新しいヨーロッパで、何から始めればよいのか……。

村中 そうなんです。いろいろ考えると、「日本人が西洋音楽をやることに何の意味があるのか」なんて疑問さえ出てきてしまいそうになります。
でも、よく考えてみてください。仮に「ベートーヴェンはドイツ人だから、彼が使っていたのと同じドイツ語ができなければ、ベートーヴェンの音楽がわからない」とするなら、私がドイツ語を知らない中学生のときに感じたベートーヴェンのピアノソナタ「月光」の美しさは、ニセモノでしょうか?

 私が外国を経験したことのない純粋な日本人の若者として捉えた「月光」の美しさやはかなさ、そして終楽章の絶望的な激情、そういったものを理解できる感性は、本当に世界に通用しないのでしょうか?

先ほどお話ししたドイツ人指揮者やフランス人審査員、イタリア人批評家らの考え方が正しければ、私たち日本人はここで“ゲームオーバー”になってしまいます。ヨーロッパのどこかの国で生まれた音楽は、その国の人々だけが理解でき、また彼らだけが本質に迫る演奏をすることができる、という考え方ですね。実際、ベートーヴェンはドイツ人しか、ドビュッシーはフランス人しか、そしてロッシーニはイタリア人しかわからない――という気持ちを、ヨーロッパ人はどこか本質的に持っているのです。

一つの例を挙げると、現在、バイロイト音楽祭などを中心に世界的に活躍しているクリスティアン・ティーレマンというドイツ人指揮者がいます。ある時期ローマで活動をしていたこともあって、彼の話すイタリア語は見事なものでした。
そのティーレマンが、ボローニャの歌劇場でヴェルディの歌劇「オテロ」を指揮したことがありました。ところがイタリア人は、ドイツ人が指揮するヴェルディの音楽を認めようとしないのです。「ドイツ的」という言葉で酷評されていましたね。

同じような話があります。モーツァルトの最も有名なオペラで、ダ・ポンテというイタリア人が台本を書いた「フィガロ」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」の3部作は世界的に最高傑作とされていますね。でもイタリア人たちは、モーツァルトがオーストリアのドイツ語圏の出身だというだけで、イタリア語で書かれたこれらの作品を「ドイツ・オペラ」(Opera Tedesca)と呼ぶのです。彼らにとって、決して「イタリア・オペラ」(Opera Italiana)ではありません。

――自国の文化に対して、今なお強烈なブライドを持っているのですね。

村中 彼らの気持ちになれば当然のことかもしれません。イタリアを含めてヨーロッパでは、自国の音楽家や彼らが創り上げた作品こそが、個人と社会の誇りであり、アイデンティティなのです。ヨーロッパ人にとって音楽とは、「お国柄」をはっきり表す重要な文化的遺産だと言えます。
そこで私がさらに検証したいと思ったのは、「なぜ日本人の私にも彼らの音楽が理解できるのか?」という点です。まず考えられる理由は「楽譜」の存在。日本の伝統音楽と違い、西洋では記譜という技術によって音楽が数学的に計算・処理され、論理的に紙の上に記されていきます。

すべての楽器の音が楽譜の上に、まるで建造物のように描かれる。そのため、さまざまな角度から楽譜を理解し、音楽の形を発展させる土壌が生まれました。そこには、記憶や口伝を頼りとする他の国や地域の音楽形態とは明確な違いがあるはずです。

たとえば日本の芸やアートの分野では、その表現方法が「○○道(どう)」として師匠から弟子に口伝などで継承されますが、「秘伝」の部分については基本的に一子相伝です。秘伝という高度な領域が、ミステリー、つまり外部からは訳のわからない不確かな奥義として隠されているのです。
でも、西洋音楽は日本の「道」と対照的です。細部に至るまですべてが記譜法によって書き尽くされ、明らかにされているように見える。

――門外不出のミステリアスな奥義のようなものはなく、演奏する内容はすべて公開されているのが西洋音楽である、と。

村中 もし西洋音楽にミステリーの部分があるとするなら、それは数字の中に見え隠れする神秘的な部分と同じようなものでしょう。西洋音楽についての歴史的な著述として、ある中世の僧侶がこんなことを述べています。

「音楽とは宇宙そのものである。この宇宙は様々な音の諧調によって構成され、天はその音の調べに合わせて回転しているのだ」

この一節は、米国の歴史家アルフレッド・W・クロスビーの著書『数量化革命』(邦訳・紀伊国屋書店)で紹介されています。中世以降も発展してきた楽譜の明快さの中に、日本の奥義とはまったく異質の、数学や天文学と通ずるミステリーが隠されているのは間違いないと思います。

ここから先はまた次回!

「横浜に新しいオーケストラを作る」と私が言ったとき、彼らは笑った。でも、私が世界のクラシック音楽の祭典で 「イノヴェーション・アワード」にノミネートされると…

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