村中大祐一発逆転のStory

 

俺が「オーケストラを作るんだ!」って言ったら、あいつら散々笑った挙句に、俺に向かってこう言いやがった。「お前さ。そんなこと、お前なんかにできるとでも思ってんのかよ!」って。だけどさ。俺たちのオーケストラのCDが、新聞誌上であのウィーン・フィルと並んで絶賛されたんだよ。そうしたら。。。


「憎まれた予言者」と
天の声

横浜育ちの村中大祐は、当時イタリアの首都ローマを中心に
ヨーロッパの歌劇場で活躍する若手指揮者だった。
だが村中には忘れられない過去があった。
日本では音楽家になることを親族から散々に反対されて
18歳まで音楽を独学で学ぶ、
いわゆる「落ちこぼれ」だった。
そんな村中が親族の反対を押し切って
指揮者になるべくウィーンに渡り
5年後には様々な国際コンクールで優勝して
やがて本場イタリアのオペラ座でオペラを指揮し始めると
日本では全く無名のはずの村中にも、東京のオペラ座でデビューする話が舞い込んだ。
だが日本での音楽体験は、ヨーロッパのそれとは比べものにならないほどの
惨憺たるものだった。
ヨーロッパの街の称賛とは裏腹に
日本では嫌というほどの批判に晒された村中は
苦渋に満ちた母国での体験を噛みしめることになる。
Nemo propheta in Patria
「予言者は祖国の敵と見なされる」
イタリア人に教わったProverbio(プロヴェルビオ)
つまり「慣用句」どおりの状況が生まれたわけだ。
失意のどん底に居ながら、村中はローマへと舞い戻った。
当時イギリスでの世界的な音楽祭への出演や、
スイスでのオペラ祭に招かれはしたが
村中の中にある絶望は計り知れないほどに深かった。
自分の指揮者という仕事への適性を、本気で疑ったりもした。
自分に集中砲火された批判の渦。
あれはいったい何だったのか?
これからどう生きていけばいいのか。
村中はまさに、人生の岐路に立たされていた。

天の声が聞こえた

イタリアのパレルモに向かう飛行機の中で
思い悩む村中に、ある天啓が舞い降りた。
「オーケストラを作れ!」
それは正真正銘の啓示だった。
その時だけだ。村中にこんな声が聞こえたのは。
そこには必死に言葉を書き留める村中の姿があった。
2003年11月22日。この天啓にあった
「自分のオーケストラを作る」という話が
その後の村中の人生を決めることになる。

港町ヨコハマの「街の音・街の色」

2004年3月、村中は故郷に舞い戻った。
もちろん例の天啓に導かれて、
「自分のオーケストラを作る」ためだ。
保障や給料は一切なし。
あるのは神懸かった「目標」だけだった。
ある日、村中は有隣堂の経営者だった
篠崎孝子氏に引き合わされた。
篠崎氏は有隣堂の戦後を作った名経営者だった。
村中には、この女性がまるで菩薩のように映ったが
実際に、彼女は村中にとっての「天の助け」となった。
彼女の後を継いで老舗の経営者となった
松信裕氏は、偶然にも村中の出身校の先輩だった。
篠崎氏の計らいで松信氏に面会した村中は
そこで横浜に自分のオーケストラを作りたい旨を伝えた。
村中は当時、自分の育った横浜の
「街の音を創ってみせる」と豪語していた。
それもそのはず。
それまで海外を中心に活躍してきた村中にとって
オーケストラが街のシンボルとなるヨーロッパ諸国のように
日本にも「街の音、街の色を表現するオーケストラ」
を作ることは、ひとつの重要な目標だった。
横浜の街には日本最古の西洋建築に囲まれた、
雰囲気の素晴らしい港がある。
そして近年ではみなとみらいが花開いたが
馬車道、元町、中華街だって
横浜の街に長い期間にわたって彩を添えて来たのだ。
「港町ヨコハマには、独特な響きがある。だからこの街に
独自のオペラとオーケストラを作りたい」
その話が松信氏の尽力で、一足飛びに横浜市へと繋がったのだった。
それからというもの、
村中は、ヨコハマの街を市の責任者とともに歩き回った。
赤レンガ倉庫や創造都市センターを、
その練習会場として使うことにした。
リハーサル風景を街の行きかう人たちに開放するためだ。
「この方法なら、街の息吹をオーケストラの響きのなかに
取り込めるんじゃないか?」
これまで自分を育ててくれたヨーロッパの街。
どの場所にも独特の響きがあった。
そして、村中の若い頃に多くの経験をもたらしてくれたのは
その多くがイタリアの港町だった。
ヴェネツィア、トリエステ、ナポリ、パレルモ、ジェノヴァ。
いずれも海に面した港町の大劇場で、指揮者として活動してきた村中には
「ヨコハマならきっと、素晴らしいモーツァルトができる。」
そういう確信があったのだ。

スローガンは「横浜から世界へ」

イタリアの暑い夏。
村中はトスカーナ地方のモンテプルチャーノに
世界的演出家のミヒャエル・ハンペを、
さらにはローマに、元ボローニャ歌劇場芸術監督の
ヴィンチェンツォ・デ・ヴィーヴォを訪ねた。
ミヒャエル・ハンペと言えば世界最高のモーツァルト演出家だ。
そして稀代のオペラ劇場マネージャーでもある。
「彼なら今の日本の聴衆にはピッタリの演出家だし、
自分の構想にきっと賛同してくれるに違いない。」
幸い村中は東京のオペラ座の仕事でハンペとは既知の仲だったから
二つ返事で彼の承諾を得た。
デ・ヴィーヴォとはイタリアで一緒に仕事をしてきた旧知の仲。
あのパヴァロッティがメトロポリタン歌劇場で出演をキャンセルしそうになると
必ずといっていいほどデ・ヴィーヴォが交渉人を務めた。
そんな世界中で尊敬されている「歌手の教育者」であり
オペラ界のドンでもある。もちろん彼も即、協力を申し出た。
そんな世界的な後ろ盾を得た村中の思いは、
残念ながらすぐに理解されることはなかった。
日本に戻った村中に、街ゆく人は冷たかった。

 

「オーケストラを横浜に作るなんて、そんなことができるわけない!」

 

多くの横浜人が、「自分の目標」を語る村中に忠告してきた。
「君ね。もう少し現実的に考えなさい。世の中そんなに甘くはないよ。」
街のおおかたは村中の「目標達成への努力」に対して、
その程度の懐疑的な見方しかしていなかったのだ。
ところが数か月後に
オーケストラはおろか、何とオペラのカンパニーが
瞬く間に横浜の街に出来上がってみると
殆どの人達が前言撤回を表明し始めた。
横浜には、世界でも充分に通用するプロダクションのスタッフが結成された。
村中はヴェネツィア・フェニーチェ歌劇場のコンサートマスターや
世界的な歌手のコーチを本場イタリアから招聘して
日本最高のオペラのクオリティを実現した。
その上、横浜には世界中の音楽家とのネットワークが築かれ
世界有数のオペラ座との協力関係の下に、
多くの世界的アーティストが横浜の街を訪れるようになった。
このプロダクションの質の高さは、その実績を見ても明らかだ。
このオーディションで選ばれた国内の若手演奏家たちは
当時まだ学生に過ぎなかったが、
やがて日本を代表するトップ奏者として、
NHK交響楽団をはじめとするプロフェッショナルの現場の
第一人者に育っている。
また海外から参加した歌手たちは、今では世界中の歌劇場で
押しも押されもせぬ活躍をしているのだ。
中にはあのスカラ座の来日公演の舞台に立った者もいる。
「横浜から世界へ。」当時の横浜市長に、こう村中が約束したスローガンは
見事な成功のカタチとして、横浜に現実化したわけだ。
実際、そんな優れた人材が集結して出来上がった
村中とオーケストラが奏でる「響き」は、
横浜に集まった聴衆に、驚きを持って迎えられた。

「横浜の街の音を表現できるオーケストラが誕生した。」

 

その音に驚きをもって聴き入る人達は
やがて村中とオーケストラを絶賛し始めた。
残念ながら横浜市が財政難であったことから
このオペラのプロダクションは中断を余儀なくされた。
村中もそれは覚悟の上だった。
でも村中にはもっと先に見据えた計画があった。

「オペラというカタチではなく、もっと自由に音楽がやりたい」

 

それが村中の願いとなっていたのだ。
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それから2年の歳月が経過した。
日本は東北大震災で未曾有の経済的・心理的危機を
経験することになる。
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東北大震災の遺したもの

村中は震災当時ロンドンに居た。
映像しか見ていなかったが、その精神的なショックは
想像を絶するほど大きなものだった。
「何としても日本のために役立ちたい。」
そんな叫ぶような思いから、2か月後には、
村中はイタリアで追悼演奏会を指揮していた。
プログラムは「海」がテーマだった。
村中が東北大震災で観たものは
BBCの放映する津波の悲惨な映像だけだ。
「これはきっと天から用意されたプログラムだ。」
当時の村中はそう理解して、指揮台に立っていた。
後半のドビュッシーの交響詩「海」。
この作品を指揮しながら、ふと眼前に迫りくる音の情景が
あまりに美しいのに驚いた。
もはや追悼どころの騒ぎではなかった。
音楽のすばらしさ。自然の美を象った音たち。
それは、村中の心に新たな目標が生まれた日となった。

 

「音楽こそが、自然と人間を結ぶものなのだ!」

これが「自然と音楽」演奏会シリーズの始まりである。

その最初のリハーサル会場は横浜・馬車道の創造都市センターだった。

Orchester AfiA(オーケストラ・アフィア)結成最初の音は、2013年7月16日「海の日」に馬車道で鳴り響いた。

その日は「街の息吹」を取り込む目的での公開リハーサル。

そこに見知らぬ街の人が詰めかける中、ひとりの女の子がやって来て、演奏に合わせて舞台袖で踊り始めた。楽しそうに踊る女の子の姿は、音楽だけが生み出すことのできる素敵な空間を象徴していた。

そこには自由・平和・愛がある。これら自然に抱かれて、私たち人間が感じることのできる三要素を、実は音楽も共有している。

つまり音楽を聴くことは、自然に抱かれることなんだ。そんな思いから、この「自然と音楽」演奏会シリーズはスタートした。

 

この「自然と音楽」演奏会シリーズは、2016年オランダのロッテルダムで行われたClassical:NEXTの「イノヴェーション・アワード」の最終10団体に

2000を超える世界の音楽団体の中から選ばれている。

 

 

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