ホロヴィッツとの対話

どうも。村中です。

昔からDavid Dubalの本はよく読むんだけど

最近「ピアニスト列伝」ってのをやっていて

それをPodcastだ、クラシックCHにアップして

今日が多分15人目。

Dubalって人は、例えばイエフディー・メニューインってな

ヴァイオリニストとの対談本で

最初に知った作家だけれど

今読んでいるのはホロヴィッツとの対談だ。

そこで紹介されたホロヴィッツの11歳の時の話をシェアするね。

彼はピアニストとして10歳を超えたあたりから

才覚を発揮するようになった。

それで父方の伯父さんが

あの偉大なピアニストで作曲家だった

アレクサンダー・スクリャービンの弟子で

モスクワ音楽院で銀賞を取ったらしいんだけど

トップだったはずが

ロシアにも存在したアンティ・セミティズム、

すなわちユダヤ人に対する迫害のために

銀賞にされたんだよね。

それでスクリャービンが怒り狂って

モスクワ音楽院の教授をやめたんだって。

そこから伯父さんとスクリャービンは

同じ「Alexander」アレクサンダーという名前もあって

親友になったというわけ。

それで、ホロヴィッツが11歳のときに

伯父の勧めでスクリャービンの前で演奏した。

その日はちょうどキエフでスクリャービンが

自分の7,8、9番のピアノソナタを演奏する4時間前。

えらくピリピリだったらしいけれど

ショパンやドホナーニなんて作品を弾いたヴォイティワに

スクリャービンがこう言ったというんだ。

「この子は必ずピアニストになる。ホンモノの才能がある。

どこまで行くかわからないが、ピアニストになるだろう。

でも頼むから総合的な勉強をさせてやってくれ。

音楽だけでなく、他にも必要な人生の側面を学べるように。

他の芸術作品や哲学、文学なども。そうやって初めて

オールラウンドの音楽家になることができる。」

このアドヴァイスは非常に効いたね、とホロヴィッツは言う。

 

まあ、ここでミケランジェリがショパンコンクール優勝後の

マウリツィオ・ポリーニに出した提案も似たようなもの。

「10年間は演奏活動をするな!」だったよね。

 

でも問題はそこだけでなく。

 

スクリャービンってのはホロヴィッツから学んだんだよね。

私らはみんな。

その意味がさ。やっぱりホロヴィッツの言葉を読めば

私が何かを言う必要はないんだよね。

「彼は深い人間だった。とても知的な人間だった。

ある意味彼は、彼が書いた音楽そのものだった。

スクリャービンは、あなたも知っての通り、神秘的な作曲家だった。

彼の音楽は超官能的で、超ロマンティックで、超神秘的だ。

あらゆることが、すべて「超」が付くわけだ。

そして全てにおいて、少しばかり”過剰”だった。

残念ながら43歳の若さで死んでしまったけれどね。」

 

私は演奏家の話をするつもりで

この話を書いたりしているわけではなく

音楽を演奏する人間の一人として

自分が音楽の本質を理解するために必要な

感情や感性を得られる材料があるなら

それを全て集めて来たものとして

その一つをここで紹介したに過ぎない。

でもね。

あまりにも歴史的に見て

スクリャービンがないがしろにされてないか。

そういう思いが強いわけ。

彼の書いた交響曲。

ホロヴィッツの語った世界が

作品に感じられたことは

未だないわけ。

そしてシューマンも。

彼の交響曲で本当にその世界観が

感じられた演奏に

私はまだ出会っていない。

だから残された道はひとつしかない。

自分でやるわけ。

自分たちの手でそれを達成する。

私はもうピアノは弾かないから

スクリャービンのピアノソナタや詩曲、エチュード等は

後世のピアニストに頼みたいところ。

頑張ってね。

ピアニスト諸君!

ピアノばっかり弾いてないで

もっといろいろと勉強してね。

今日も素敵な一日を!

村中大祐

 

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