マリアの不思議

1948年頃にマリアが歌ったヴェローナ歌劇場での

歌劇「トウーランドット」のCDブックレットには

当時の彼女の写真が大写しになって残っている。

関西弁で言う

「このオバハン、えらい肥えてまんなあ。」

という印象だ。

そこから心機一転、 急激なダイエットにより曲線美を得たカラスが

失ったものとは何か?

録音でもわかるのは、その豊かで包容力のある美声だ。

ヴィジュアルを重要視することは

昨今のオペラ界で周知の事実。

通だと云わんばかりの論客に言わせると

「オペラはやっぱり総合芸術。眼で楽しむ贅沢がないと。」

でもオペラとは本当に眼で見るものなのか。

いつもこれは疑問に思ってきた。

うまい鮨を食うことに熱心な人たちは

その素材を楽しむ。

味音痴にはわからない論理だろうが

オペラにも実は旬の味覚を味わうべく集まる通がいる。

彼らに云わせれば「声」そのものを聴きにくるわけだ。

「声」によって人は感動するのだから。

カラスの声はデブの時、豊かで美しかった。

でも彼女が曲線美を得てからというもの

声はその名のとおり「カラス」の声となった。

彼女はその「カラス」の鳴き声のような

イタリア語で云うところの brutta voce (汚い声)を

見事なまでの高度な表現に活かしきったのを

皆さんはご存じだろうか。

美しいものだけでは表現にならないのは

子供の純粋さだけでエロスやパトスが語りきれないのと同じだろう。

デブからの脱却により

むしろ曲線美と表現の幅の両方を得た形になったのではないか。

曲線美を得たカラスがパリ・シャトレ座で行った

ジョルジュ・プレートル指揮によるガラ・コンサートの

白黒映像が残っている。

ここに収められた

ビゼーの歌劇「カルメン」終幕への前奏曲で

歌を歌わずに舞台上で佇むデイーヴァを

カメラが執拗なまでに追いかけるシーンは

カラスという人間が

如何に音楽の中に生き抜くことができたかを物語る

最高の映像だと思う。

Callasを想うとき

白いマネキンでは衣装が引き立てられないことを痛感する。

歌手ではなく

ひとの魂、芸術家の魂こそが

これらの衣を装うにふさわしいものなのだと。

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