日本の美学ってなんだ?(2010年のブログから)

今日は復活祭の日曜日。

イタリア人の初老の友人から先日受けた質問について

朝から思い巡らしていた。

「お前はキリストについてどう思うか?」

凄い質問だが、これは一番エキサイテイングな質問で

キリストの役割について思うところを数時間に亘って説明した。

これが復活祭の序章になろうとは、その時は思わなかったが

十字架上のキリストは自分の人生を生き抜いたのだと信じている。

ひとりの人間として。ひとりの神の子として。われわれと同じように。

NYの知り合いから是非読んでくれと「原発」についての文書を渡されたが

読んでみてその内容に愕然とした。

これをどう処理したらいいのかその重さに耐えきれないで数日が経過している。

僕は皆がこれを読んでどう反応するかある程度想像がつくので

ブログに紹介するつもりはない。

今の日本は物事の真実をきちんと把握できる環境にない。

ひとりひとりの良心は昭和では伝説的なほどに優れていたが

平成の20年でその神話は崩れ去った。

今日本で巷に流れる情報のどれもが、ひとりひとりの良心に基づいた情報だが

あなたは本当にそれを信じるだけの勇気があるのだろうか。

こんなに自分が責任を回避する教育を行き届かせてしまったら

数字ひとつ当てにならないんじゃないか?

そんな社会を生き抜くのは本当に難しい。

お金だけを信じたくなる気持ちも、ちょっとだけわかるかな。

真実とは多面的だ。まるで万華鏡のようだ。

「誰にとっての真実」か。

同じ事実でも、見る方角が変われば、

色も味も変わるのが真実の深みというもの。

それを正義と悪の二元論で割りきった時

それは派閥の権力争いみたいなものになってしまう。

結果的にはそこから抜け出せなくなって

「見えない力」に手足を絡めとられてしまい

物事の本質は見えないままだ。

真実はひとつではないと理解すること。

そして例え自分の敵であっても

相手の見方に一分の理があることを認めること。

それこそが今求められていると信じる。

もう一度言うが

原発の問題は極めて重く、責任は重大だ。

僕の肩では背負いきれない。

福島の小学校の安全性についての国側からの回答について

説明を求める説明会のビデオを見た。

そこに居並ぶ文科省や原子力機関のお役人さんの顔を見て

いつもなら「この人達では無理だ」という感覚が先にたつはずなのだが

被害者に対しての憐憫でなく役人に対しての憐憫の情のほうが先にたった。

原子力という化け物が日本中にあって、僕にはその責任が重すぎてとりきれない。

そんな自分が役人の姿と重なって見えてくるからだ。

正直に言うが、僕には無理だ。

そして彼らにも責任はとりきれないはずだ。

その責任をとれ、と言われる気持ちはどんなものだろうか。

少なくとも僕は自分が役人と同じ類いの人間であることを

痛切に思ったのだ。

文句を言われる役人の気持ちになってみた。

責任とは周りが押し付けるものではない。

自分の力で積極的にとることができるものを責任というのだ。

そう叫びたくなる。

本来の日本の美とはこの「積極的な責任のとり方」なのだ。

だから責任を取らせる方も、相手の「顔を立てて」

責任の取らせ方を考えたのだと思う。

相手の尊厳を大切にする思いやりだ。

これが形骸化したから日本の良心の神話が崩れ堕ちたのだ。

そこには美学があったはずだ。

四十七士もそのために戦った。

責任とは本来「そのひとの生きざまを美しく変える」ものだと思う。

日本人の本来の姿はそこにあるのではないのか。

今あなたがとっている責任は美しいですか?

今あなたが人にとらせようとしているその責任とは

その相手が積極的に自分の尊厳を美しく保つことができる責任でしょうか。

もしそうでないなら、その責任はその人には負いきれません。

何か前向きでないと責任ってのはとれない。

僕間違ってないと思いますよ。

だから今新しいアイデア、前向きなアイデアが必要なんです。

そのアイデアで新しい地平が切り開けるんじゃないかと。

そうやって見方を変えれば責任を積極的にとれるようになるんじゃないかと。

風力とか太陽光とか地熱とかいろいろやればいいんではないかと。

未来を切り開くほかないじゃないですか。

そう思うわけです。

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