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自分より経験豊富な方には自明のことかもしれないが、
この歳になって(33歳^_^)、
やっと人生を生きる上で大切なことを一つ、
たった一つだけ理解できた。

カラヤンやチェリビダッケといった偉大な芸術家は、
その人生の中で東洋と出会い、極めて優れた人生哲学を持っていたが、私も音楽家というより1人の人間として、
ようやっとその入り口に立てたようだ。

しかし、普通の正常な日本人には当たり前のことが、
何故この歳まで分からなかったのだろう。
これは如何に自分が変人かを示す証左。

でも若いうちにヨーロッパに行ってしまうと、
陰陽のバランスをとるなど無理な話し。
徹頭徹尾、自分の信じる「正しさ」を追い求める。

だが、それもまた吉である。
それをやらねば、決して見つからない世界があるからだ。

私が最初に理解に苦しんだ言葉がある。
「清濁併せ呑む」という言葉。
或いは「きれいな水に魚は住まない」という言葉。

私はそのいずれをも、そもそも理解するつもりはなかった。
私にとっての音楽とは、「美」の中に存在したからである。
だから「真善美」の側面だけを追って音楽をしていたと思う。

そうすると人生では何が起こるか?

そこがまさに生きる醍醐味というやつで、
光が強ければ、或いは「追い求める」光が強ければ、
影も強く表面化するようになるようだ。

どういうことかと言えば、人生のさまざまな局面における
自分の想像もしない場所で、自分の思いと裏腹な、
つまりは逆のエネルギーが作用するようになるのだ。

私は若い頃、この種の自分にとって「負」とも言えるエネルギーを、ある意味振り捨てて来たし、あたかもその「負」が存在しないがごとくに振る舞い、自分に影響が全くないように思ってきた。

だが、ある時期から陰陽の学びを得るようになり、そういった
「負」のちからのお蔭で、「陽」が存在しうることにようやく気が付くようになると、全てが違った見方で見えるようになってきたのだ。

だが考えてみると、
昔から弁証法という言葉は日本でも使われている。
誰もが知っているヘーゲルの「正~反~合 Aufhebung」の話は、正に陰陽の存在から新たなイノヴェーションが起こる、
という21世紀的な筋書きのようにも思えてくる。

私は幼い頃から音楽には慣れ親しんで来たが、物心がついたころ、私が音楽を志すことは「勉強ができなくなった言い訳」として親戚一同から解釈され、母方の一族以外は、私の音楽志向に徹底して反対してきた。

あまりの執拗な反対があったため、陰陽の「陽」ばかりを追っていたころは、まるで「敵」のようなものだった。
だが、そういう反対があったお蔭で今の自分が出来上がっているのは否めない事実である。

私の名前でグーグルを検索すれば、誰が書いたのかは知らないが、私の評判の悪さは日本一である。そういったことを書かれるのは正直苦しかったが、今思えば懐かしい思い出である。
これがなければ、私の今の活動はないからである。私の中でイノヴェーションは起こらなかっただろうと思うからだ。

昔読んだことのある聖書の一節も、違和感があり続けたひとつだ。「汝の敵を愛せよ」
んなバカなことあるか!と思っていたが、まあそういう気持ちに自分がなるとは、思いもしなかった。

これまで私を憎み、私を嫉妬し、私を嘲笑した貴方。
私にエネルギーを与えてくれてありがとう。

私のエネルギーを奪おうとした貴方。
逆に私にエネルギーを奪われていたことに気が付いたか?

私はやっと気が付いた。
私はあなたたちのお蔭でここまで来れた。
そのことに感謝している。
ありがとう。

まあ、本当に書きたいことは明日に譲るが、
こんな気持ちになるとは、苦しかった当時は
思いも寄らなかった。

人生の不思議を感じている。
(つづく)

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