【選択と集中】

From:村中大祐

「選択と集中」というのは、言うは易しく行うは難し。

まあ、どんな分野でも同じだと思うのですが
「選択と集中」には
気付きのようなものが必要だなと思います。

今日はそんなお話です。

私は基本的に午前中は勉強の時間に当てています。
というのも、ここ数年Orchester AfiAの運営をやっていて
自分の持っているものを出すだけ出して
結果的に得られるものも多いのですが
やはり貯めていくものもないといけない。

私たちのような仕事は、常に勉強。

そして先10年、20年のヴィジョンが必要で
どこで何をするかを選び取る必要があります。

やりたい勉強はたくさんあります。

でも全部一辺にやるのは無理。
選ばなければなりません。

始めてみると、
最初のうちは沢山沢山引っ張り出して
机の上がいつもいっぱいの状態です。

それが時と共に絞られてきます。

夏はワーグナーを読み込みたくて、
色々工夫していました。
それこそ、付箋をいっぱい使って
ワーグナーの世界に没頭しました。

でも夜になっても片付かない。
午前中で終わりたいのに
なかなか目指す予定までできないのです。

それが段々に処理されていくようになる。

不思議なものです。
毎日続けていくと、苦手なはずの「選択と集中」が
自ずから出来上がって来る。

いっぱい散らかっていた机の上が
いくつかの重要な案件でまとまるようになりました。

午前中はピアノに向かい、大音響で弾きながら
オペラやシンフォニーを弾く日々が続きました。

ちなみに昨日「奥義」について書きました。
http://kurashikku.jp/
ちょっと難しいです。

私は23歳のときにウィーンに渡りました。
その時にどうしてもやりたかったことがありました。
それはゲーテの「ファウスト」を原文で読みたかったのです。

知り合いに紹介してもらい
現地の老婦人の御宅に
この「ファウスト」を習いに行きました。

毎週1時間でしたが
ドイツ語だけなので、半分寝てました。
分からなかったんですね。当時は。
何がなんだか。

でもそうやって習ってみると
身体に身に付くものもあります。

そして日本の大学時代には
ずーっとドイツ歌曲の仕事をしていました。

だからピアノで歌曲の伴奏をすることは
ある意味専門となり
ウィーンでも随分仕事をしました。

歌曲のリサイタルの伴奏者なんかも
当時はウィーンで引き受けておりました。
シューマンのいくつかの連作歌曲集や
シューベルトの「冬の旅」はお得意でした。
これは祖母や母から受け継いだ伝統です。

母の師匠の佐々木成子さんは
今年98歳で他界されましたが
ドイツ歌曲の戦後日本の第一人者でした。
また関西では笹田和子さんの弟子でしたから
ある意味ドイツ語の歌の伝統に
日本に居ながらにして
触れることができたのです。

でもドイツ歌曲というのは極めて特殊な世界です。

クラシック音楽の世界のなかでも
特にオタクな世界と申しましょうか。

こういった世界に触れていたことが
今ここになって私の人生に大きく生きてくるとは
正直思いませんでした。

歌曲は作曲のひな形なんです。
つまり全ての本質とも言えます。
そこにドイツ語が絡んできて
ドラマを形成する。

まさに3分版のワーグナーのオペラですね。
それを延々と勉強してみた経験は
何にも増して今、栄養になっているんです。
どう栄養になっているかは
いずれ書いてみます。

まあ、歌曲をやること、これも選択なんです。

私は仕事としてピアニストを選びませんでしたが
でもピアニストを目指したことで
得たことが歌曲以外にも
本当に沢山あります。

現代では殆どの指揮者は、世界的に見ても
指揮者になりたい人がなっていますし
ピアノが上手い指揮者というのは居ても
ピアニストから指揮者になった人は少ないです。

指揮者でピアノが上手い人と
ピアニストから指揮者になった人は
全く意味が異なるのです。

サヴァリッシュやアシュケナージ、エッシェンバッハやバレンボイムは
ピアニストから指揮者になりました。

実は師匠のマークもそうでした。
フルトヴェングラーやコルトーの指揮でピアニストとして
デビューしています。

アッバードも同じくピアニスト志望でしたから
フリードリッヒ・グルダの下で一緒になった
マルタ・アルゲリッチに適わないと思って
しょげていたアッバードに
グルダが「指揮者になれば」とアドヴァイスしたのです。

そう言う意味で言うなら
彼らは特殊な感性の人達です。

彼らが指揮者になったのは、
「音楽的な必然」からなったのです。

そこが普通の指揮者とは少し違うところでしょう。
普通の指揮者は「指揮がしたい」から成るのです。
そこはかなり違うと思います。

指揮というものは習うものではありません。

自分の「音楽的な必然」が
身体から湧き上がってきて
それを相手に伝えることで
指揮者として立つことができます。

響きをどのように扱うのか。
空間がどう構成されるのか。
その中にどのような理念から論理を構築するのか。

そして場のエネルギーをどのように理解し
それを音に結び付けて表現するのか。

皆がそれぞれに、自分の語法を持ちうるのですね。
だから習うことはできない。
むしろ自分で発見したもの以外
役に立たないと言ったほうがよいでしょう。

だから最初は誰でも指揮くらいはできるのです。
でも後からジワジワと違いが出てきます。
その時に「感性」の勝負となるのです。

そして「何を発見したか」が求められます。

これら、全ては選択と言えます。
何と何を選択し、それらを組み合わせて、どこへ向かうのか。

先が長いだけに、音は選ばなければなりません。
さもないと、いい加減な音に惑わされて
本当に欲しいものが見つからなくなる。

選択と集中とは、そう言う意味なのですね。
本当に何を表現したいのか。
本当は何をやりたいのか。

そこに行きつくような気がします。
これは、分かれば実現できます。
全てのエネルギーをそこにぶち込むだけです。

人間、命懸けでやれば
大抵のことは叶います。

でも選択ができない。
捨てられない。

毎日の生活で、何を選ぶのか。
何を食べるのか。
誰と過ごすのか。

そう言ったことがすごく大切だと
改めて感じています。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

 

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