指揮者の交渉術④「成功体験」

From:村中大祐

成功体験は重要ですね。
特に幼い頃の成功体験は
その後の人生を大きく左右します。

私の場合、仕事の要所要所で
どうしても人と交渉するうえで

この成功体験があったことは
何より重要だったと
ごくごく最近気づくようになりました。

あなたは今の生き方を振り返って
幼い頃の体験の影響はこれかな?
と思うことはありますか?

あったら是非コメントで教えてみて下さい。
今日は成功体験についてです。

こちらからどうぞ!

============================

From:村中大祐

夏の暑さは
これ風物詩のようなもの。

日本では風鈴や打ち水など
様々な工夫で涼を演出するが

私のような音楽家にとって
音や水よりむしろ
風のほうが
夏を感じさせてくれる。

暑い夏に雨が降り
そこにさわやかに流れる風。

Soave sia il vento 風よ穏やかに
tranquilla sia l’onda 波よ静まりたまえ
Ed ogni elemento そして森羅万象において
Benigno risponda われらの願いが
Ai nostri desir  かなえられますように

モーツァルト(モーちゃん)のオペラ
「コジ・ファン・トゥッテ」の一部だ。

これ、やっぱり「夏の音楽」だということ。

モーツァルトと言えば
「フェラーリを運転するような気分」

そう言ったのは指揮者のリッカルド・ムーティだが
「コジ」をザルツブルク音楽祭で初めて観たのが
ムーティ指揮ウィーン・フィルで
演出はミヒャエル・ハンペだった。

夏の夜、ザルツブルク音楽祭の小劇場で
かかった演目だったが、
私は大学卒業したばかりで

まだウィーンの入学も決まっていない
まさに大変な時期だったが
ザルツブルクにはモーツァルテウム音楽院があり
その夏期講習に参加すると
音楽祭のチケットが安くで入手でき
うまくすると立ち見が1000円ほどで確保できたのだった。

このムーティ&ハンペの「コジ・ファン・トゥッテ」を
私は1990年の音楽祭期間中に2度も立ち見でみて大興奮。

夜も眠れなかった、そんな気分だった。
でもそれは聴衆として観劇した場合だ。

いざ演奏するとなると。
モーツァルトの中でも一番難しいオペラに早変わり。

画像の説明

人生には不思議が連発するもので
このハンペ氏が演出をする
モーツァルトの「魔笛」が
私の新国立劇場でのデビューだった。

基本的にシンメトリカル(線対称)な舞台に
職人芸の人間ドラマを見せるのが得意な人だけに
「魔笛」というファンタジー小説は
左右対称で扱うことができず
ハンペ氏はもうひとつの武器である
人間ドラマだけで
「魔笛」を描いていたのが
少し心残りだった。

言ってみれば無機質と人間性のコントラストを
描き出すのが上手いということ。

極論するなら
黒のなかに白を鮮やかに見せる、
そういうコントラストが
彼の得意技なわけだ。

彼が見せてくれたザルツブルクの「コジ」は
そう言う意味において
完璧に練り上げられた芸術作品だった。

当時23歳の私は
その位の眼力は既に備えていたのだと思う。

このハンペ氏を懐柔すべく
イタリアのモンテプルチャーノまで
足を延ばしたのは
「オーケストラをつくれ」という声が聴こえた
翌年2004年の夏だった。

ローマからフィレンツェまで電車で3時間ほど。
そこから単線しかない駅を経て
計6時間かけてモンテプルチャーノに到着。

あらかじめfaxで連絡はしていたから
ハンペ氏は快く迎えてくれた。

彼は日本でオペラの講習会を企画するよう
私に提案してきた。

夏の昼、有名なブルネッロの
赤ワインで乾杯しながら
私は彼にこう切り出した。

「今横浜でオペラの上演を考えています。
あなたに是非とも協力してもらいたいのです。
私はムーティとあなたが創り上げた
あの素晴らしいザルツブルク音楽祭でのコジを
日本の聴衆に届けたいのです。」

何と彼は全面的な協力を申し出てくれた。

私が彼の提案してきた
「オペラの講習会」の部分を
オペラ上演までの道筋の中に
その場で即興的に盛り込んだからだった。

ミィーティングはほぼ2時間ほどで
食事終了とともに終わったが

私はそこからローマまでの道のりを考えると
途方に暮れていた。

そこから最寄りの駅までは
バスしか存在しなかった。
休日の昼間、タクシーを見つけることは
殆ど不可能に近かった。

バス停で1時間半、そして
最寄り駅で1時間待った後
ローマの自宅に戻ったのは
真夜中のことだった。

ハンペ氏を選んだことに
私は誇りと自信を持っていた。

だが、これが「横浜オペラ未来プロジェクト」へと
繋がるまでには
まだ多くの交渉を続けなければ
ならなかった。

ダスキンで交渉を始めたのが
15~6歳の頃のことだ。
気が付いてみたら外国で
一流アーティストと
交渉を始めるようになっていた。

幼い頃の成功体験とは、
かくも意味深いものなのだろうか。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅より
村中大祐

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です