画像の説明

昨日は一足先に文化の日を満喫。

と言うのも休日は道が混むこともあり、

またタイミングが良い時に訪れたい場所を訪れるという意味で

一日早く文化の日を設定。

昔知己のあった人間国宝の方の展覧会に足を運んだ。

京都という街には様々な思いが交錯する。

父が京都生まれということもあり、また自分の本籍が京都というこもあって

この独特の街の愛憎には幼い頃から経験が深い。

だからそう思うのか、海外の古い街を見てそう思うのか

あるいは鎌倉の傍に住むことから思うのかわからないが

京都の色、というものにはいつも不思議を感じて来た。

色というものは、空の色や太陽の光の影響を受ける。

人間がその眼で見る色は、これらの影響で決まると言っていい。

だから例えばイタリアの赤や青が、その空の高さや光と影の違いから

日本のそれとはまったく異なる色であることは

誰もが結構簡単に気づけることだと思う。

京都の色と題して書くからには、必ずそのことに触れねばならないが

正直、京都の色を美しいと思ったことがない。

ひょっとしたら時代が変わり、感性が変わったからなのだろうか?

今回見た展覧会も、日本の古来の手法を基にして浮き上がった色だったが

この色を自分の世界に持ち込んでみたとき

微妙なバイブレーションの違和感を感じる。

使えない色なのだ。

京都の色の多くが、実は私たちの自由を縛ろうとする。

つまり彼らの世界に引きずり込むことには長けているが

実際の私たちの感性に寄り添うことをしない。

そこで拮抗した感覚を持つ場合、大衆に迎合して

これは「素晴らしいものだ!」と言うのは私には無理だ。

彼らの色は明らかに時代を超越している。良い意味ではない。

今を生きる人には合わないのだから。

だがそれを良しとするなら、その色に付き合って

私たちの方が変わらなければならないのだ。

そういう色を私は認めなければならないのだろうか。

やはり色というものは、時代を表現するものであるべきだと思う。

だからこそ、私たちが変わっていく、その姿に併せて

京都の色も変容すべきだと思う。

その足取りが遅いと、私たちが常に重荷を背負わされ

過去と向き合わざるを得ない。

過去と向き合う情念より、そういった過去に立脚しながらも

過去の怨念やら情念を浄化するなかで、新たな気づきを得ると同時に

古いものを捨て、新しい時代を築いて行くのも必要ではないのか。

そんな思いを持ちながら文化の日は無事に終了。

はて、音楽の新しいカタチも、時代と共に変わるべし。

そういうことになるのは必定。大変である。

またそれも楽しからずや。

素敵な文化の日を!