こんにちは。
指揮者の村中大祐です。
今日は私とシューベルトの関係について
少しお話しようと思います。
私は音楽を勉強することを
家族や親類縁者から
徹底的に反対されていました。
まあ、今となっては
「よくぞ反対してくれた!」
という感謝の思いしかありませんが
当時はやはり大変でしたね。
「たのむからサラリーマンにはならないで」
これが母親の願いであり
「でも音楽家だけにはならないで」
という言葉が常に語られていたのですから。(笑)
もう漫才みたいな話です。
その理由は急逝した父親の
親族の思いがあったからです。
「勉強ができなくなったら
あいつはきっと音楽をやりたい、
と言うに違いない」
それがおおかたの予想でした。
私は中学生の頃から
音楽をやりたくて
ピアノを独学で学んでいました。
その時に出会ったのは
シューベルトの「即興曲」という
ピアノ作品です。
ちょっとピアノを弾いてみたので
聴いてみて下さい。
ほんの触りですが
雰囲気は伝わると思います。
最初の触りだけですが
まあ、こんな感じです。
何だか悲しい響きに聴こえるじゃないですか。
でもシューベルトってのは
これが変化するんですね。
すぐに変わる。
表情が移ろいやすい。
まるで風が吹くと
雲が動いて
太陽が出たり隠れたり
そんな天気が
どんどん変わるような
光の移ろいがあるんですね。
だからある意味
「森羅万象」ってやつを
凄く感じるわけです。
シューベルトの音楽って。
若い頃に弾いていたピアノ曲、
特にこういった「即興曲」が
最初の入り口というか
シューベルトを感じる
きっかけになりました。
でももっと深いところでは
歌曲の勉強を18歳くらいから
本格的に始めたんですね。
私は音楽の専門的な勉強を
最初は「歌曲の伴奏」から
スタートしたんです。
しかも最初にゲーテの
「ファウスト」に出てくる
グレートヒェンの場面を歌にした
「糸をつむぐグレートヒェン」
から始めたわけです。
(ああ、こんな曲、知らなくても全然平気です。
私たちの生活には直接関わってこないですから。)
まあ、そんなわけで
シューベルトの世界に
徐々に慣れていったんですね。
大学を卒業してから
今度は実際に
ウィーンの音楽大学に入学します。
もちろん指揮科です。
そこで最初の曲目が
シューベルトの「未完成交響楽」。
なぜか?
シューベルトは生粋の
「ウィーンっ子」だからなんですね。
つまりウィーンに来たんだから
あなたたちはシューベルトから学びなさい。
そういう感じがあったんですね。
ご存知の方もいらっしゃると思いますが
モーツァルトがウィーンで活躍できたのは
彼の晩年の数年のことです。
モーツァルトはザルツブルク生まれです。
ウィーンに落ち着くのは
かなり後になってからですね。
ベートーヴェンはかなり長く
ウィーンに居ましたが
実際はドイツ人で
オーストリア人ではありません。
(しかもオランダ系ですね。)
でもシューベルトは
ウィーン生まれのウィーン育ち。
そう言う意味で
シューベルトこそが
ウィーンの代表格の作曲家なわけですね。
私は日本で音楽を
大学で専攻していませんから
オーケストラなど
まったく指揮したことがないわけです。
もちろんオーケストラの
指揮者用の楽譜を読むことも
最初は非常に大変でした。
一番最初の指揮のレッスンでは
ほんの数小節しか覚えられず
主任教授に「出ていけ」と言われたのは
以前お話しましたね。
その後、ウィーンで
オーケストラの前で
生まれて初めて指揮したわけですが
学生のオーケストラ相手に
初めて指揮したのも
シューベルト。
彼の「未完成交響楽」でした。
その時のことは忘れられません。
自分が音を聴きながら
相手の音に合わせて
指揮するとですね。
オーケストラってのは
ぐちゃぐちゃに
なるんですね。
何故だかわかりますか?
指揮者がオーケストラの音を聴いてから
指揮するならば
指揮者はいらないんですね。
指揮者って
先に指揮しなきゃいけないんですね。
それを知らなかったというか
アタマではわかっていても
最初の体験とは
そんな感じだったんです。
私の記念すべき
最初の「未完成交響楽」は
ぐちゃぐちゃに壊れました。(笑)
それで師匠からはまた
「ムラナカ出ていけ!」
の号令がかかりました。
そんな感じで
シューベルトとのお付き合いは
結構長い訳です。
そんなウィーンでのある日のこと。
韓国人のバス歌手と
ウィーン市内で歌曲のリサイタルを
やることが正式に決まったんですね。
もちろん私はピアノです。
歌じゃありませんよ。
曲目はシューベルトの「冬の旅」全曲。
当時はまだ指揮科の一般教養や
オペラ・コンサート通いなど
山のようにやることがあって
専門の指揮の授業だけでも手一杯なのに
そんな歌曲のリサイタルの伴奏を
ウィーンのベヒシュタイン・ザールという
小さなホールでやったんですね。
若いというのは素敵ですね。
無茶苦茶な時間配分で
リサイタルの伴奏者を
きっちりと務めたわけです。
ところがこの日。
唯一の問題が生じました。
演奏はうまくいったんですよ。
でも。。。
涙が出て
本番中
もう止まらないんです。
それはですね。
演奏会が始まる2時間前に
既に別れたはずの
昔付き合っていた彼女が
わざわざ日本から
ウィーンに電話をかけて来たんです。
彼女はスゴイ美人。
私、彼女をライバルから
奪い取ったんですよ。
その位の大恋愛でしたね。
初恋ってのは
エネルギー出ますよね。
アタマも良い
帰国子女だったんですが
私より1年先に卒業して
就職していたんですね。
(私は浪人していますから。)
もちろん私は音楽で身を立てられるかも
わからない。
だからお別れしたんです。
そんな彼女から突然!
シューベルトの本番前に電話が。
「ダイスケ、わたし。。。」
私、その時直感したんです。
「結婚するの?」
彼女は「はい。」と答えました。
。。。。
私は何と言ってよいやら。
「幸せになって」
多分そう答えたと思います。
でも正直はっきりとは覚えていません。
その電話の2時間後に演奏した
シューベルトの「冬の旅」なんですが
こんな歌詞で歌が始まるんです。
「見知らぬ地からやって来た私は
また見知らぬ地へと旅立っていく。
中略
娘は愛について語り
その母も結婚について語っていた。」
こんな歌詞なんですよ。
いきなり最初から。
もう泣きますよね。
自分の状況と重なって
涙が止まらなくなったんです。
私のウィーンのシューベルト体験とは
そういう実際の体験が
盛りだくさんなんです。
ですから3年ほど前に
ロンドンでイギリス室内管弦楽団との
仕事が始まって以来
1度も話に上ることがなかった
このシューベルトを
何とあのチャールズ皇太子が
所望されたと知った時は
本当に驚きました。
私は当時かなり不思議に思ったんですね。
「日本人の指揮者に
シューベルトやベートーヴェンを
指揮させるなんて
チャールズ皇太子も
勇気があるなあ。」
どうやらチャールズ皇太子は
周囲にMI6の諜報部がありますから
私のそれまでのロンドンでの
音楽会についても
きちんと調べはついていたらしいのですね。
「村中はウィーンの音楽が得意らしい」
実際にその公演では
ベートーヴェンやショパン、シューベルトの
演奏をしたわけですが
メインはシューベルトの交響曲でした。
まさにあの移ろいやすい気分が
たった1日の少ない練習時間で
どこまで出せるか。
もうちょっとだけしか
練習しないんだから。
ロンドンは。
それでも素晴らしい公演になるんですよ。
チャールズ皇太子は
どうやら
私のことを試されたようです。
公演はお蔭様で
満場の聴衆が総立ちの大成功。
皇太子ご本人から
お褒めの言葉を頂戴し
自宅にまでお手紙が届きました。
それで私への評価は
「村中はウィーン音楽が得意」
ということで
どうやら落ち着いたようです。
生きた人間の気持ち。
それが音に反映されるかどうか。
歌詞がついた歌曲を
長年仕事にしていて
良かったと
この時しみじみと感じました。
人生何事も無駄はない!
反対してくれた親族縁者がいなければ
私は晴れて日本で音楽の勉強をできたでしょう。
でも結果は多分
音楽大学をドロップアウトをして
就職したのではないか。
何故なら?
私、学校ではとにかく
どこへ行っても
「落ちこぼれ」ですから。(笑)
日本で行かなくて、
いや
行けなくて良かった!
今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐でした。
追伸:あと2枚アマゾンで売ってます。
シューベルト交響曲「グレート」はこちら↓
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