言葉と音。そして音と言葉。。。

私はクラシック音楽に

ピアノ作品から入り

感覚的・精神的な自分の支えとした後

 

そこからは

歌曲の世界を学ぶことで

本格的に

この音楽の世界に入ったワケね。

 

その成り行きは割愛するとして

その時は既に東京外語大の

ドイツ語学科に入学していたの。

 

ドイツ語は正直、最初から

性に合わない、とわかったし

 

自分が関西人であることも関係して

やっぱりラテン系が合うなぁ、と思っていた。

 

でも、ドイツ語は音楽のために選んだので

そのドイツ語に関わる作品を

学ぶことは忘れなかった。

 

その基礎となったのが

ドイツ語の歌曲だった。

 

そこから観えてくる景色があるのね。

例えば、ピアノ作品を学ぶ時に

10代の頃にショパンに夢中になって

「前奏曲」って弾くわけね。

 

その後に

シューマンの「謝肉祭」とか弾いていくと

交響的練習曲とかクライスレリアーナに眼が行く。

 

でも、正直言って意味不明なのね。

 

なぜ、こういう数珠繋ぎのような

連作作品があるのか。

どんな意味なんだろう。

 

それが歌曲をやると

分かって来たのね。

 

音楽家に言わせれば

それが当たり前、と言われるかもしれないけれど

 

わたしは、その意味を

ドイツ語の歌詞から学んだわけ。

 

ドイツ語をどう扱うか?によって

作品が連なり合って

その先に観えてくる世界観がある。

 

それをまあ、連作歌曲集って呼ぶけれど。

 

結局、ドイツ語の

たったひとつの言葉のニュアンスで

作品全体の捉え方や世界観が違って見えてくる。

 

その世界に魅かれた、ということ。

 

だから、指揮者になるため

ウィーンに行った後

最初にザルツブルク音楽祭の講習を受けた。

 

その時に真っ先に紛れ込んだ先が

エリーザベト・シュヴァルツコプフの歌曲講習会。

 

実際には日本でエリック・ヴェルヴァや

ライナー・ホフマン氏にも接点があったことで

歌曲の世界はもう自分の世界だった。

 

そこで学んだのは

ドイツ語の発語の仕方ひとつで

空間の色や意識、波動を

変化させられること。

 

ピアニストとして

歌手と共同作業する際に

 

ドイツ語という言葉の「音の裏」にある

その「意識」や「世界観」。

 

それを、自分が

伴奏者というポジションを利用して

歌手と一緒に検証する作業。

 

そこから今までの数十年

音楽を読み解いて来たつもり。

 

もちろんオペラに至っては

これは大変な作業だったし

それを徹底させられた

歌手たちにとっては

 

ある意味

「いい加減にしてほしい」相手。笑

 

そこから、まだ先がある。

 

日本語の言霊学に話は飛ぶと

日本語の音って

ひとつの音にそれぞれ

神が宿っているっていうこと。

 

これ、実はある意味では

ドイツ歌曲の世界で

やっていたことと

似ているな、と。

 

まあ、そういう意味で

祝詞を毎日奏上して

実験してるんだよね。

 

現象学としての祝詞の検証。

まだまだ日は浅いけど

 

先日お見せしたように

桃の木に花芽が付いたのは

本当に祝詞のお蔭です。笑

 

今日も素敵な一日を。

Muran

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