連作歌曲とロマンティック、そしてマーラーとシューマン。。。

連作歌曲が好きになったのは
20歳くらいのとき。

当時の私はシューマンの
「クライスレリアーナ」が得意で
よく弾いていた覚えがある。

「女の愛と生涯」や「リーダークライス」
「ミルテの花」「詩人の恋」は
好きでよく歌手と一緒に演奏したものだ。

これらの経験は
その後、例えばブラームスの
「ハイドンの主題による変奏曲」や
エルガーの「エニグマ変奏曲」を
やったりするのに
結構役に立つと思った。

そう。「展覧会の絵」を
理解するのにも役立つ。

理由は作品群を個別ではなく
全体的に捉えるための
訓練になるからだ。

ただ、ひとつだけ違いがあるのは
連作歌曲の場合は

歌詞、つまり言葉の存在。

でも、変奏曲などは
それがないのね。

連作だけど、言葉がない。

確か、ベルリオーズが偉大な作品
「幻想交響曲」を作ったとき

19世紀というのは
その音楽を「プログラムされた」ものとして
批判する人がいたんだ。

聴き手に「自由を与えない」態度。

作曲家たるもの、
音で勝負しないとダメ
みたいな風潮だった。

じゃあ同じ音楽でも
歌詞が付いていれば良いのか?
という疑問が残るワケ。

歌詞が付いてるのは
プログラムされた音楽にはならないか?

しかるに、この批判は
的を得ないものなんだけどね。

この慣習というか因習というものは
未だに払拭されてないみたい。

聴き手に特定のアイディアを
与えずに
純粋に音楽だけで勝負しなければならない
みたいなのは

やっぱり発展する思想を
邪魔する古い因習に見えたね。

そういう意味では

連作歌曲や連作作品を
数多く作ったシューマンは
様々なカタチで新しい地平を
切り開いたけれど

彼のやった功績は後年
誤解に継ぐ誤解を乗り越えなければ
ならなかったんだよ。

特にシューマンの場合、
そのオーケストレーションについては
一番誤解されたものだと思う。

その誤解の根拠というか
シューマンを認めたくない
意識というのは

シューマンの持つ世界を
理解したくない、というより

シューマンの持つ
諧謔性やロマン性を
「信じたくない」という

過去の考え方に囚われる傾向が
強い人たちによって

こういった誤解が
怖れから「生成された」
と思うんだよね。

今も一緒だよね。
分からないのは怖いんだ。

シューマンのロマン性は
極めて難解で

常軌を逸した世界を
音のなかに
取り込んだわけで

それを当時のキリスト教社会が
簡単に取り入れたとは
到底考えにくい。

当時としても現代としても
かなり妄想に近いものを
音楽に取り入れたという意味では

そもそもシューマンに対する誤解があった。

でも、音楽が素晴らしいし
メンデルスゾーンやブラームスが
シューマンを守ろうとしたから

奥さんのクララも含めて
応援したから
シューマンは時代を超えて
生き残れたんだと思うね。

音のなかに言葉の世界、とくに
時代や思想を
本格的に取り入れたことで

音楽が急激に変化したのが
実はシューマンの功績。

それがなければ
後に生まれた
ベルリオーズやマーラーの音は
気違い沙汰だったはず。

なのにマーラーは
シューマンを理解しなかったからか
あるいは、シューマンを助けたかったのか。

そのどちらかだと思うけど
シューマンのオーケストレーションを
マーラーは音の構成自体は変えずに
補強した。

楽器を増やしたり
様々に手を加えたんだ。

その書き換え、というのは
モーツァルトやベートーヴェンの作品にさえ
起きていたから
時代の因習とも言えるけれど

やはりシューマンに対する
というか
ロマンティックそのものに対する

キリスト教社会からの
「こいつアタマおかしい」
という見方が

そこには常にあったからじゃないかな?と
思うわけで。

異様な騎士長クライスラーという存在が
E・T・A ホフマンの文学作品に
出てくるだけで

当時10代のわたしには
その発想の意味が
まったく分からなかった
言うんだけどね。

その時代を理解するというのが
卓上の知識だけでは
そもそも無理。

シューマンの歌曲の
その歌詞の意味にしたって

いくらドイツ語ができたところで
その世界観の前にたったら

その時代の理解の入り口にすら
立てなかったりするくらい
かけ離れたものだった。

そんなワケの分からん世界を
そもそも日本語に訳したところで

世界観として
意味が通るかと言えば

背後の哲学とか時代背景を
どのくらい感覚的に捉えられるか
の方がむしろ重要で

だから、卓上のお勉強を
やればやるほど
本質から遠ざかるものだった気がする。

好きだと、音をなぞったところで
音感覚でシューマンという人間を
捉えるしかなくって

背後の時代とか哲学とか
思想の必然というのは
時代に生きてみないと
理解できないものがあるんだ。

でも、人間の潜在意識を
扱えるような
今の時代に生きていると

そのロマンティックな
感性の意味がようやく
理解されて来ている気がする。

時代を経て
シューマンやETAホフマン、
カスパー・D・フリードリヒの
言わんとするところが

もしかすると近いんじゃないか。

わたし的には
猫じゃなくて
犬が燕尾服着てたら
もっとこの世界、
受け入れられると思う。笑

そうそう。我が家の桃の花。
満開なり。

祝詞の成果は抜群である。
Muran

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