世界で活躍するオーケストラ指揮者が語る「ボーダーレス時代のリーダーシップ」(その1)

第一章世界で活躍するオーケストラ指揮者が語る「リーダーシップ」とは?

  • 音楽と茶道の共通点                  
  • 経験がないまま、世界一の指揮者養成機関へ     
  • 名指揮者が生み出す「言葉のような音」       
  • 独自性を追い求める                  
  • 一言で「相手」と「場の雰囲気」を変える 
  • 「自分のキライなところ」を探そう
  • すべての人のエネルギーを巻き込むために
  • 楽器と歌手が一緒に「歌う」オーケストラ
  • 音楽でボーダーレスな世界を実現する 

 

Photo : Daisuke Muranaka ©中村ユタカ

2015年7月、英国ロンドンを本拠とするイギリス室内管弦楽団の

「国際招聘指揮者」に日本人の村中大祐が就任した。

それに先立つ3月、村中は4度目となるロンドン公演を行い、

英国の聴衆と批評家が彼の指揮を絶賛している。

5月には、日本人のパトロンとして世界の音楽界に

多大な貢献をしたチェスキーナ洋子氏(15年1月に82歳で死去)の

追悼チャリティ公演に抜擢され、

臨席したチャールズ英皇太子はその指揮ぶりに感嘆して、

村中の自宅に賞賛の手紙を送った。

村中はかつてウィーンやローマを拠点に

世界中で活躍していたが、2002年、東洋人として初めて

グラインドボーン音楽祭の指揮台に立って

英国デビューを飾ってからは、

海外の拠点をロンドンと位置づけている。

 

2013年からは、音楽評論家に高い評価を受けている

「オーケストラ・アフィア」(Orchestra AfiA)を率いて

「自然と音楽」演奏会シリーズを開催。

2015年のシーズンからは東京・赤坂にある

紀尾井ホールを拠点に公演を行っており、

12月11日(金)は「Finding Silk Road」(シルクロードへの旅)

というテーマで、武満徹、ラヴェル、

そしてマーラーの「大地の歌」の室内楽版新版の日本初演を行う。

 

「大地の歌」の室内楽版新版の演奏については、

世界初録音作品として来年にも発売しようという勢いだ。

また、村中はこの公演で、バイロイト音楽祭の

常連歌手などを積極的に招聘するなど

相当の外交手腕も見せている。

 

まさに今、最も熱い国際派音楽家の一人と言える彼に

インタビューを行い、どんな経験を重ねて、

国の違いを超えて世界の人々の心を震わせる

秘訣を摑んだのかを訊いてみた。

日本語を含め5ヵ国語に堪能な村中だが、

「日本語で満足の行く表現ができるようになって、

初めて外国語も満足に使えるようになった」と、

意外にも思えることを語る。

今回のインタビューではまず、

その「日本語重視」の理由から聞いてみた。

 

――国際的に活動する音楽家である村中さんが、

なぜ日本語の表現を重視するのでしょうか?

 

村中 ただ闇雲に音を出すだけでは音楽になりませんよね。

音に込められたメッセージがあって、

初めて相手に「何か」がフワっと伝わるわけです。

それは「自分が伝えたい思い」かもしれない。

 

そういったものを常日頃から

自分の生活のなかで深められているかどうか。

それは、海外で生活する上で

とても重要なファクターだと思います。

また、自分の中でいかにメッセージを育むか

ということも考えると、

外国語教育の基礎には、

日本語の極めて膨大な下地が必要だと思うのです。

言葉の感覚は母国語で培われるものです。

 

そして「自分にとっての日本」とは何かを探ること。

自分個人と日本との関係性を知っておくこと。

これは時間がかかると思いますね。

でも、それができ始めると、使う外国語も、

不思議と豊かになってくる。

つまり日本語が「自分の言葉」になっていれば、

どんな国の言葉を使おうが、相手に伝わるということです。

 

音楽と茶道の共通点

 

――そういう考えは、ヨーロッパで長く

留学生活と演奏活動を送っていた間に培われたのですか。

村中 私はローマに行く前、

ウィーンでの6年間の留学生活を送りましたが、

その間、自分の中に取り込むインプットは、

ほとんどがクラシック音楽に関することばかりでした。

日本人として海外で生きるとき、

音楽家は外国に溶け込もうと努力し、

言葉や音楽を学び、演奏しますが、

そこで取り込む「西洋的な感覚」と同じくらい

分厚い「何か日本的なもの」を、

常に自分の中に用意する必要があることに気がつきました。

 

「日本的なもの」が欠如するというのは、

私にとって一種の喪失感であり、危機感でした。

外国の文化を取り込めば取り込むほど、

自分がなくなっていくような感覚

と言ったらよいのでしょうか。

そこで文化庁からイタリアへ

在外研修に送り出して頂いたとき、

絶対にミラノではなくローマに行って、

そこの日本文化会館を通じて

自分の中に何か日本的なものを取り込もうと思ったのです。

 

これからは、自分の底辺に今まで以上に

大きな「何か日本的なもの」が必要だ……。

本能的にそう感じていたのです。

 

――そこで、イタリアで日本的なことを始めた、と。

 

村中 そうなんです、茶道を始めました。ローマで(笑)。

 

裏千家の茶室を経営する野尻命子先生が、

バチカンの司祭などを含むヨーロッパの人たちに

「お茶の心」を伝えておられたのです。

先生に茶道を教えて頂いたときは、

本当に「自分の心が定まった」瞬間だったと思います。

私にとっては、日本独自の文化であり、

しかも音楽の世界ともある意味で

共通する言語である「茶の湯」という文化は

大変大きなインプットになりました。

「魂のよりどころ」とでも言うのでしょうか。

 

利休が説いた「茶の湯の心」とは、

英語で言うserenity(安らぎ、静穏)を

伝えることらしいのですが、

それは作法を見せることではなく、

心を伝えるものだということを知りました。

毎日の生活でささくれだった心が、

お茶席で座っていると落ち着いて豊かな気分になります。

そういったことが大事だ、と教わりました。

 

そのため、茶を点てる主人は自分の心を整え、

自分の心を込めて茶事を行うわけです。

目には見えないメッセージがそこにあるわけで、

音楽の演奏とまったく同じであると感じました。

Daisuke Muranaka©中村ユタカ

 

村中の考え方は、一言で言って「自分流」だ。

日本で受けた音楽教育は、

3歳以降のプライベートレッスンのみ。

9歳で父親が他界すると、

親族からは音楽の道に進むことを猛反対され、

専門的な勉強を一時は諦めていた。

 

ところが大学受験の浪人中、

通っていた駿台予備校の英語教師に

聞いた話がきっかけとなって、

やはり音楽家になろうと決意。

その晩、母親に土下座して、

音楽の道に進ませてほしいと頼んだ。

 

こうして一転、

音楽の専門教育を受けることになったが、

そこは時間との勝負。

18歳ならすでにある程度の

音楽的なスキルが身に付いていなければならない。

音楽家になるため村中が取った行動は、

東京外国語大学でドイツ語と国際関係論を学ぶことだった。

――村中さんは18歳の浪人中に音楽家になろうと決心し、

東京外語大を目指しました。

どうして芸大や音大ではなかったのですか?

 

村中 母の声楽の師匠でもあった佐々木成子先生が、

「ドイツ語をやってから

ドイツに音楽の勉強に行ったら?」

とアドヴァイスを下さったのがきっかけです。

当時の私は指揮者志望ではなく、ピアニスト志望でした。

 

――では、大学時代に何かのきっかけがあって、

指揮者になろうと思い始めたのですか?

 

村中 私は学生時代、

日本でピアノのリサイタルを何度か開きましたが、

一人でやる音楽に限界を感じていました。

そんなとき、かつて浪人時代に

アドヴァイスを下さった佐々木成子先生がまた

「あなたはサヴァリッシュみたいな

指揮者になったらどう?」

と勧めてくださったのです。

東京外語大の卒業前、

ピアニストとしての壁にぶち当たっていた時期でしたが、

それまでは、指揮者という方向性は

考えもしませんでした。

 

経験がないまま、世界一の指揮者養成機関へ

 

――そこでピアニスト志望から

大きく進路変更して、

指揮者への道をスタートした、と。

 

村中 東京外語大を卒業した後、

すぐ渡欧してウィーン国立音楽大学の

指揮科に入学しました。

ただ、ウィーンの指揮科に入ってからも、

自分が指揮者になれるとは考えていませんでした。

本当に自分がオーケストラという

「集団」を指揮できるのだろうか、

という逡巡があったのです。

 

それまで集団プレーは、

サッカーやバレーボールといった

スポーツでは経験していましたが、

音楽の世界では、ピアノを弾くときのように

いつも一人で音と向き合っていました。

音と自分の関係は、極めて個人的で

ナイーブなものだったんですね。

おまけに一人っ子でしたから、

一人でいることは得意なわけです(笑)。

 

ピアニストを目指していたときは、

自分一人で演奏しますから、

オーケストラのような集団と一緒に

音楽をするなんて考えもしなかった。

正直言って、苦手な分野だなあ、と。

 

――ウィーン国立音楽大学の指揮科と言えば、

ブルーノ・ワルター、ヘルベルト・フォン・カラヤン、

クラウディオ・アッバード、

ニコラウス・アーノンクールらをはじめとする

超一流の人材を多く輩出してきた

世界トップクラスの指揮者養成機関ですが、

そこへいきなり飛び込んだのですね。

 

村中 しかも、指揮の経験は

一切ないままにウィーンに行きました(笑)。

モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」で

入学試験を受けたんです。

当時、ベートーヴェンやシューベルトの交響曲が

よく課題になっていましたが、

そんな交響曲の楽譜は見たこともなく、

入試の前日、ウィーンのケルントナー通りの道端で、

小遣い稼ぎのために弦楽器奏者が

モーツァルトのこの曲を弾いていたのを聴いて、

「これならやれるかも」と思った。

そこでドブリンガーという楽譜屋に行って

楽譜を買い、一夜漬けで勉強しました。

 

ところが翌日、試験場に入ったら、

ピアノが2台、ピアニストが4人

並んでいるじゃありませんか。

指揮者の試験では通常、

ピアニストを指揮するらしいのですが、

私はそんな当たり前のことすら

知らなかったのです。

 

でも、やるしかありません。

曲は4拍子だから、とりあえずドイツ語で

「1、2、3、4」と号令をかけたんです。

すると、ピアニストは一応弾いてくれたんですが、

審査員たちがドヒャーという感じで笑い出して、

「こいつは面白い」と評してくれた。

そんなところが外国で認めてもらえた

理由だったのかもしれませんね。

 

当時、ウィーンの指揮科には

世界中から毎年100人以上の受験者が

集まっていましたが、

そんな型破りな奴は

きっと私くらいだったのでしょう。

オリジナリティがあると

評価されたのかもしれませんが、

本当のところはわかりません。

とにかく合格しました。

 

名指揮者が生み出す「言葉のような音

 

――入学後、授業や課題は厳しかったと思いますが、

つらさや悩みなどはありませんでしたか?

 

村中 ウィーンの指揮科に入って2年目か3年目に、

大学がオペラ公演をやることになり、

その指揮者に抜擢されたんです。

実はそれまで、とにかく「一人の音楽」から

「オーケストラ」への移行が心理的に苦しくて、

かなり悩んでいました。

一人でピアノを弾くのなら

繊細なニュアンスを出せるのに、

集団での演奏になると

表現がおおざっぱになる感じがして、

それが嫌でした。

 

ところが、そのオペラ公演を指揮したとき、

「自由」を感じたんです。

舞台の上で歌手が自由に動き回り、

お客が笑い転げているのを見て、

「あ、これは俺の天職だ!」と強く思った。

そのときからです、

本当に指揮者になろうと考えたのは。

Daisuke Muranaka©Alex MacNaughton

それから2年後、

村中はヨーロッパで数々の国際コンクールで優勝し、

「新人指揮者コンクールで次々と

優勝をさらっていく日本人がいる」と注目された。

イタリアで指揮者としての初舞台を踏み、

やがてフルトヴェングラーの流れを汲む

名指揮者ペーター・マークと出会う。

マークは村中の才能を当初から高く評価し、

村中を最後まで自分の傍に置いて研鑽を積ませた。

 

――ペーター・マーク氏は、

日本でも東京都交響楽団や読売交響楽団に

たびたび招かれて多くの作品を指揮した

名指揮者として知られていますが、

村中さんは本人に会うまで、

まったくマーク氏のことを知らなかったそうですね。

 

村中 そうなんです。

恥ずかしながら、日本ではずっと

ピアニストになることしか頭になく、

一方、オーケストラとなると、

1980年代は海外のオーケストラの演奏会が

日本でも目白押しで、

ほとんど在京のオーケストラの公演には

行ったことがありませんでした。

 

マークのこともまったく不勉強で、

たまたま私が優勝したコンクールの

審査員長を彼が務めていたことから、

出会うチャンスがあったのです。

ちょうどコンクールの第二次審査の休憩中のことでした。

ベートーヴェンの交響曲を指揮した後、

休んでいた私のところにマークがやって来て、

いきなり「お前、俺のことを知ってるか?」

と訊いてきたので、

正直に「知らない」と答えたら、

変な顔をしていました(笑)。

「俺は日本フィルをずいぶん昔から指揮しているんだぞ」

なんて言ってましたね。

その後、彼がトレヴィーゾ歌劇場で指揮した

モーツァルトの「魔笛」の公演を見て、

本当にびっくり仰天しました。

あまりに素晴らしく、

ウィーン国立歌劇場などで行われている

モーツァルトの演奏とはまったく方向性の違う、

生き生きとした新鮮な音楽だった。

音が、まるで言葉のように語りかけてきたのです。

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