「美しい」と感じるこころは
時代や世代とともに変わるものなのだろうか?

そこに生まれる違いに気付くことが
果たして幸せかどうかはわからないけれど。

「美しい」は英語でbeautifulと使う。
でもこの日本語の「美しい」を
多くの日本人は非常に過小評価している気がする。

「美しさ」を概して「軽い」とする世代が多いのに気がついたのはいつごろからか?

例えば「美しい国日本」と題する政治理念があったとき
一般に「きれいごと」で片付ける空気が日本を支配していた。

「美しさ」が「きれいごと」?
イワユル現代日本人の本質的な態度はこれだ。

「よきもの」を批判するのだが
その結果に責任を負うつもりはないわけだ。

「美しさ」とは絶対的な価値で
こればかりは批判できないものだ。対抗し得ないものだ。

それに対して「きれいごと」という妙な言葉で表現できるのも
日本語の素晴らしさといいたいところだが
こればかりは納得がいかない。

これは死生観と通ずるところがあるのか?

特に「腹を切る」行為に象徴される自己犠牲。
それを美しいとする感覚。

でも気がつくとこのウツクシサは
映画などでは「桜吹雪」でもない限り
美しくもなんともない光景なのだ。
唯の悲惨な光景になるはずが
桜吹雪でごまかされていないか?

桜吹雪は確かに美しい。
だが「腹きり」は本当に美しいだろうか?

でも

だからこそ

「美しい」という言葉を軽視するような文化が生まれるのではないか?

「美しい日本」がだめなら

「いとおかしき日本」ならいいのか?

「荘厳なる日本」ならいいのか?

「厳粛なる日本」「尊き日本」???

考えれば考えるほど国粋主義に近くなるように思うのだが
これはなぜか?
言葉とはおそろしいものだ。

「うつくしい」=beautiful

あなたは美しいものに囲まれていたくはないですか?
あなた自身で美しいものを生み出したくはないですか?
そういう欲求が自分の中にあると感じることに
音楽を聴いていて気がつくのでは?

音楽を奏でることができることは
この世の一番の幸せであり
美しい体験なのだということを
僕ら音楽家は人に伝える役割があると思う。

日本の美と言われるものの中に
すべてではないものの
僕には「黒」がまざって見えることがある。

純粋に喜びを共有できないインプットされた何かがあるのでは? だとすれば、すごく損をしているのではないか?

「美しい」ものを「美しい」と感じるまえに
ちょっと黒くしておかないと安心できない人がまだいるのだ。

これは音の中にも感じられる。
自分の中にもあるだろう。
僕も日本人だから。

だから自分も含め、日本人の音は重く感じる。
軽いものから重要なものは生まれないと思っているから。
でも落とし穴があるのは
この従来の日本的なやり方だけでは
「美しさ」の重要な部分を経験できなくなるということだ。

重くしているのは
「美しい」ものを純粋に「美しい」として良しとしない
われわれの頭の中の問題なのではないのか。

重みは光と影からは生まれるが
単なる黒い闇からは何も生まれはしない。

その闇を「空(クウ)」とでも言うか?
便利な言葉だと思う。

「美しさ」=beauty

そこには「だけど」もなにもないのだ。
黒などいらないのだ。
美しさのあるがままを喜び、共感し、愛し、享受するのがうまくなると、 菊も刀も超えられるのではないか。

そうすると音はもっと軽くなるだろう。
そして違う次元に羽ばたける気がするのだ。