フランス給費留学生試験の顛末①

最近事務所の整理をするため、昔の資料の取捨選択をせねばならず、その中に埋もれた書類に記憶を呼び起こしていたら、ウィーン時代の記憶や東京で外語に通っていた時代に、自分が何を考えていたか?を思いだす良い機会となった。
まずは推薦状。

先週大往生された佐々木成子先生は、私が母のお腹に居るときからのお付き合いだが、「指揮者になったらどう?バカじゃないからドイツ語勉強して、大学卒業したらウィーンでもドイツでも行ったらいいじゃない?」の一言。このアドヴァイスで東京外語だけでなく、指揮者になったと思う。

一年間作曲家の尾高惇忠師とドイツ歌曲の佐々木成子師に教わりながら、二年目にはウィーンでヨーゼフ・ディヒラー師に師事。ミニコンサートを聴いていたロシア人名教師イリエフ師が、「お前才能あるから、9月から私のクラスに来い。教えてやる」と言われたが、「俺はパリに行く」と断ったことで、ピアニストの道を絶ったことには気が付かず。(今ならわかるが、当時はわからなかった。)

でもピアニストになりたくて、本当にパリに行こうと決意。それでウィーンから帰国後、すぐにフランス給費留学生試験を受けてみた。本人必死である。

この試験。普通は内定者が先生によって決められているとか。そんなことは問題じゃないとばかりに、推薦状を尾高先生と佐々木先生にお願いしたが、佐々木先生曰く、「あなた馬鹿じゃないから、自分で推薦状書いて来てごらんなさい。それを私が手直しして出すから。」と仰る。尾高先生にその話をしたところ、「それはおばちゃま、うまいことを仰る。じゃあ俺もそうするから、お前書いてこい。」

さあ、大変だ。自分で推薦状を書くなんて。と思いきや、意外とこれが面白い。すらすらあることないことを書きながら、得意満面、両先生のところへ。そしたら出てきた推薦状がこれ。

「村中大祐さんは時折、彼の母親の伴奏者として私のところに来ます。
現在東京外国語大学に学ぶ傍ら、作曲家の尾高惇忠氏の下でピアノと和声を学んでいる彼が、所謂音楽大学の学生としての素養も研究も準備もなしに、今回の試験を受ける事自体、大変無謀なこととさえ思います。
しかし、むしろ日本での画一的とも思える音楽大学の経験をぬきに、はじめてパリで日本では得ることの出来ない、又ちがった方法と角度から専門的な教育を受ける事のの方が、彼にとっては誠に大切で意味のあることであり、又良い結果が得られるのではないかと敢えて給費生として推薦いたします。彼の演奏から、その観点をお聴きとりいただければ幸いです。
1987年7月
佐々木成子【名古屋音楽大学教授】」

今思えば、無謀なことをやったもんだ。
だが、佐々木先生の慧眼。
ドイツ語をやってから海外でというパターンもありだと思う。
少なくとも私の場合は、本当に自分に合った方法論だった。

佐々木成子先生。安らかに。
本当にありがとうございました。
もう一度佐々木先生には登場して頂こうと思うが、
今日はここまで。

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