指揮者の交渉術⑮「点と線」

From:村中大祐

今になって思えば
自分のやり方があって良かったなと思うんですが

人と違う方法を選び取ることは
よほど勇気がないと
大抵の人はめげて
途中で投げ出すのではないかな?
と思っています。

それは自分が不安になるからです。
周囲とは違うことはある意味ストレスですからね。

そのストレスと戦えば
まず必ずと言ってよいほど負けます。

違いにフォーカスするからですね。
そこで2つの選択肢が出てきます。

一つは群れの中に飛び込み
同じやり方をする。

もう一つは自分のやり方が
受け入れてもらえる場所に移動する。
すなわちプラットフォームを変えてみる。

私の場合は「人との違い」は半端ないです(笑)。
存在自体が「間違い」みたいな状況も
多々あったように思います。

じゃあ何故引きこもりとかにならなかったのか。
うーん。なりそうになったこともあったのでしょう。
でも割合鈍感だったのと
幸運が続いたからだと思うのです。

周囲の方のお蔭で守ってもらえたのだと信じています。

でも自分が本当に「違う」場合は
合わせようがないんですよ。

つまりその「違い」を持って生きていく覚悟があれば
「違い」はひとまず置いておく。
そして共通点を探す方向に自分の視点がシフトするわけです。

外国で生きる場合も
意外に現地の人達は最初、私に「異質」を見ようとします。

そこで「共通点」を探して
彼らの前に提示してみせると
うまくいく場合も多いです。

それは彼らが納得するとかではなく
「自分」が安心するわけです。
自分が安心すると、彼らも安心をし始める。

何だかそういうサイクルのような気がしますね。
今日は日本に帰って来てオーケストラの前に立ったときの
違いにフォーカスした話です。

こちらから読んでみて下さい。

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From:村中大祐

日本に戻ってオーケストラの前に立った時
ひとつ感じたことがあった。

ヨーロッパでオーケストラの前に初めて立った人間からすると
やっぱり「空気感」が違う。
「俺たち」と「あいつ(指揮者)」の
線引きがすごくハッキリしていたように思う。

それは日本社会の特徴として悪くない。
というか、やむをえない。
それを否定するつもりはない。

ただ個人が集団からポロポロとこぼれ落ちていく感覚。
何か自分が感じたら
それを集団を気にせず表現できる自由。

それが日本社会にないのと同じように
オーケストラにもなかった。

オーケストラの響きについて言及するなら
指揮者の指揮する合図に対して
「点」で合わせようとする感覚だった。
指揮者が歌おうとすると
点がずれる、と思う人が当時は多かったように思う。

つまり全体を見ないで
その瞬間に集中する日本人と対照的に

ヨーロッパは「線」や「流れ」のなかに
生きようとする感覚がある。

これは私が日本に戻ってからかなり変わったように思う。
もうかれこれ20年近く経つわけで
だいぶんと、集団のなかで自分を主張できる人が
集団の中で増えてきたように思う。

そうすると日本人の強みがハッキリしてくるようになった。
まあ、これは次号に回すとして。

2000年ごろのオーケストラは
まだ「点」に意識を収れんさせる音楽だったように思う。

そうすると点だけを見るために
全体が見えないわけだ。

「歌う」つまりCantabileカンタービレというのは
音楽の基本だが
この歌うという目的のためには
途中テンポをあげて
前に進む瞬間がある。
そしてカデンツというところで収束し
元のテンポに戻るのだが

これがヨーロッパのオーケストラとの関係性では
指揮者が指示しなくとも
オーケストラが問題なく自発的に
あるところで前に動き
あるところで収束してくれる。

前に動かないとするなら
前に動かすのが指揮者だ。
そうするともとに戻ろうとする慣性が働き
自動的に「自分たちで」元に戻る、というのが
ヨーロッパのオーケストラの習慣だ。

でも日本のオーケストラと相対してみて
最初に思ったのは
日本ではオーケストラが自発的に前に動かないことだ。

最初に指揮者が「点」で始めて
「点」で音が出る。
そうするとカンタービレにならない。

歌うときは美空ひばりでも平原綾香でも
前に進むのだが
「歌おう」として前に進もうとすると
日本のオーケストラは点で止まっていることが多い。

それを頑張って前に進めてみた。
もちろんヨーロッパのオーケストラの持つ
「自発的な慣性」から元の状態に戻ることを期待して。

ところが前に進むと、戻らなければならない箇所で
そのまま前に進んだテンポのまま
ドンドン進んで行ってしまう。

これには正直参った。
自分は指揮の技術を持っているつもりだったし
海外の様々なコンクールで
その技術は最高度に評価されてきたが
日本のオーケストラでは通用しないのか?と
正直深い迷いに入り込みそうになったこともある。

だが実は同じ話を
昔オペラを教えてもらったことのある
師匠のドイツ人指揮者フォルカー・レニケさんに
聞いたことがあった。

「自分の技術はまったく通用しない」

私が東京外語の時代に
オペラに興味を持ったので
レニケさん指揮で行われる
大阪音大のカレッジ・オペラハウスのこけら落とし、
ヴェルディ「ファルスタッフ」を
見せてもらいに行ったときのことだ。

オーケストラの中でリハーサルを聴いていた私は
オーケストラの連中がレニケさんを
ぼろくそに言っているのを聞いた。

「あんな指揮じゃ弾けない」

先ほどのレニケさんの言葉、

「自分のヨーロッパでは通用していた技術が
日本ではどういうわけか通用しない」

というのは
つまり個人と集団の関係性が
ヨーロッパと日本が違うために
起こる問題なのだ。

「何だかわからないけど、結構うまくいく」
日本でうまくいく場合とは
「ミスがない」場合だろう。

自分がミスをすると
誰かのせいにする人が多い社会では
指揮者やリーダーに向けて
自分のミスの責任をとらせるべく
集中砲火をするのが習わしだ。

「自分にミスをさせない」リーダーが
優れたリーダーとされる。

正直「なんだこりゃ?」が私の感触だ。
どこかおかしくないか?これ。

点と線。

「線」にフォーカスすると、自分を出さざるを得ない。
リスクを伴うのが「線」である。

日本では
リーダーの責任の取り方として
分かりやすさを求めるあまり
「点」で解決をする。

それが分かりやすいからだ。
点描のマイスターは斎藤秀雄さんだが
斎藤秀雄さんのインタビューを読んで思うことは
「誰にでもできる」「誰にでも分かる」
を主体とする教えだったということだ。

そこから理念や哲学は生まれていないように思う。
現代社会に潜むわかりやすさ志向。

点描の世界観、すなわち全体でなく部分に収斂するエネルギー。

そう言ったことを改善するには
3.11を待たねばならなかったようだ。
つまり時代が変わり
日本が変わったお蔭で
日本のオーケストラの響きも変わって来た。

次回はもう少しこの辺りを逡巡してみようと思う。

今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐

追伸:「指揮者の交渉術」はどういう意味かと言えば
自分という個性を、日本の社会とどう折り合いをつけるかの
交渉術のこと。わたしの感じていた理想像に日本が
少しずつ近づきつつあるのは嬉しいけれど、
それを「なんとなく」やり過ごしてきた感があって
やはり言語化する必要に迫られていると思う。
全てはこれからの検証のため。

そうそう、2月にはイタリアのテアトロ・マッシモ・ベッリーニでドビュッシー没後100周年の記念演奏会を2晩指揮することがようやく正式になりました。このHPのトップページに記載しています。

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