Selig sind…
この言葉は
ブラームスの有名な合唱作品、
ドイツ・レクイエムの最初の言葉。
朝、今アタマのなかで
ずーっと流れてる。
聖書のなかの言葉だ。
このゼーリッヒという言葉の意味。
多分、神父さんや牧師さんは
この言葉について
想いを巡らしているはずなんだ。
どんな意味なのか。
どんな世界なのか。
Seeleという言葉はドイツ語で
「魂」と訳されて
日本語に変換されるけど
その「魂」が形容詞になって
ブラームスがたくさんの男女のコーラスで
「魂的なことって。。。」と
曲を始めさせるところが
意味深なんだ。
朝、4時半。家族の介護で起こされて
そこから眼が覚めて書き始めた。笑
そんな時にSelig ist…
「魂的って。。。」
よくあることなんだけど。爆
こうやって昔から
ある特定の作品のことが
突然気になり出すことが多い。
Selig sind …
Selig sind , die da Leid tragen
Denn sie sollen getröstet werden.
翻訳すると、こうなる。
「魂的な人は、
基本的にこころの痛みを抱えていて
だからこそ、
癒されるべきなんだ。」
Seligという言葉を
魂的と訳す人は世界中どこを探しても
わたしだけ。笑
フランス語の訳でも
SeligというのはHappyと訳される。
幸せ?
違うよな。
こんな問答をひとしきり
2時間くらいやるわけ。笑
Seligという言葉は
すごく意味深なんだ。
そもそも音韻からしてズが来るから
その「温かみ」がただのハッピーじゃなく
魂的、という訳に繋がる。
もちろんSeeleという単語自体が
Die Seeleで魂みたいな感じだから
Seligと来れば魂的、という形容詞になる。
でも、問題はここからで
その言葉が例えば「聖書」のどこらへんから
持ってこられたか?みたいな話になる。
理由は、ブラームスが
この「ドイツ・レクイエム」を
作曲した際に
聖書からの引用が多いからだ。
この箇所は新約のマタイ伝、第5章の4に
翻訳が書いてある。
「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」
ドイツ語やイタリア語のウィキペディアでは
ブラームスが選んだ歌詞について
「亡くなった人への鎮魂ではなく
遺された人の哀しみにフォーカスされている」
と書かれていて
ああ、なるほど、と思った次第。
イタリアではブラームスのことを
Ateoつまり「反キリスト」的な見方をしてる。笑
それは、彼がカトリックでもなく
プロテスタント的な信仰でもなく(笑)
「自然信仰」のようなものを
端々に見て取ることができるから、らしい。
レクイエムとは言え
それが亡くなった人の追悼ではなく
遺された家族や遺族、友人たちへの
心の癒しをもたらすものである
という位置づけが
非常に興味深く感じるわけ。
そこでもう一度
Seligという言葉に戻るなら
その意味が
最初とはだいぶ
違って観えて来たというワケね。
イタリアでは無神論のことを
「ローマの神を信じない」というだけでなく
神聖な存在を信じない、という意味で
アテオAteoとブラームスのことを呼ぶけれど
むしろ、人間の側に立った、つまり
人間の視点から世界を観た
そんな気がして
Seligという言葉が示す意味も
「こころで哀しみを感じることができる人々」
のことを指しているのだろう、
と思ったわけ。
ブラームスの音楽が醸し出す
優しさに溢れた想い。
人間愛、とでも表現できるもの。
それが、単なる教会の常識や典礼を超えて
生まれたもののような気がする。
だから、聖書の言葉というより
人間の言葉が
この作品のなかで再構築されているのかも。
どの言葉も「人間の側」として
読んでいくと
その意味が、現代に生きる我々なら
深く理解できるように思った。
Muran
P.S. Selig ist…と来る作品は、J.S.バッハのカンタータ。
その訳がフランス語訳では「幸せ」って訳なんだけどね。
最近のコメント