光を怖がるひとたち

光と影を見事に扱った画家カラヴァッジョの作品を見ていて

いつも思うことは

光がなければ影ができないということ。

人の世で光を怖がるひとは多い。

光が輝くことによって

己の見せたくない部分、あるいは自分で見たくない部分に

眼を向けざるを得なくなる。

それが嫌だし、怖いのだ。

自分はできないのではないか。

自分のあの部分が知られたらどうしようか。

そういう怖れを抱えている人が多い。

芸術家というものは、その怖れから自由なひとを指す。

別に絵を描いたり、音を奏でるから芸術家になれるのではない。

ビジネスマンであっても、怖れから自由なひとはみな芸術家の称号を得る。

怖れとは自由を奪う。

それは何よりも尊い「純粋さ」を奪うからだ。

自由が我々に条件として求めるのは、ひとの中の純粋さだ。

その部分が響きあうとき、不思議な創造が生まれる。

子供から自由を奪うな。純粋さを奪うな。

子供の眼はすべてを映す鏡だ。

その眼に映る己の姿を見て、ひとは脅迫されたように思うのだ。

子供に本当の姿を見られてはならない、そう思うのだろう。

だから子供の純粋さを奪おうとする。

それが今の時代だ。

飛べない大人に、何を語る権利があるというのか。

子供の眼にはすべて明らかなのだ。

光をこわがるな。

すべてを光の下にさらすのだ。

それができなければ

誰もが罪のない罪を抱えながら生きることになる。

ただ怖いだけなのに、恐怖が罪の意識に転化されてしまう。

検証ができないひとたち。

真実に光をあてるのが怖い人たちに告ぐ。

そのままではあなたたちは救われない。

いつまでも恐怖のとりこのままだ。

純粋な眼を取り戻せ。

子供の、あのこわいくらいに純粋な眼を。

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