怖れの釘

「怖れ」は裏切りや争いを生む。

残念ながら宗教の存在はひとの中に大きな迷いを生む。

宗教のなかにある教義が、ひとの真理への探究を阻むからだ。

ひとの多くは自分のエゴを満足させるために宗教を利用しているにすぎない。

それもひとの生きる自由だ。その自由を束縛するつもりは

当方にはさらさらない。

人間の感性というものは、より崇高な存在を感知するものなのだ。

子供ながらに知覚されるこの真実は、何よりも優れた信仰の姿だ。

だが、映画「フック」に出てくる太ったピーターパンのように

大人になって飛べなくなったピーターは、この真実を見失う。

あたかも教義がすべてのように、刷り込みが行われ

純粋な真実から眼をそらしてしまう。

イエス・キリストが十字架にかけられたのは

多くの人間が「変化を恐れた」ことによるものだ。

彼が奇跡を起こしたことも、

彼が我々ひとりひとりの中に

神性があることを伝えたことも

すべては「時代が変わる」きっかけとなるからこそ

否定されたのだ。

人の中にはすべての答えがある。

イエスの手足を打ち抜いた釘であるかどうかは別として

この釘をみせられて

変化を恐れる社会の残酷さと

哀れさを見たような気がした。

変化を恐れる社会はいずれ滅ぶのだ。

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