この1カ月、断捨離を敢行。
自宅のスタジオの配置換えをした。
机の位置やオーディオの位置を変えることで
ようやく落ち着いて音楽を聴ける環境になったと言える。
まだ、荷物が多いとはいうものの
音楽を聴く環境が整うのは
嬉しいことだった。
特にフルトヴェングラーの演奏を聴きたくて
買っていたRIASのライブの中から
今朝はベートーヴェンの「田園」を。
この作品、日本でも演奏しているけれど
最近ではロンドンでの演奏が最後かもしれない。
わたしには長い年月の
私にしかわからない戦いがあった。
音楽をいかに、因習に縛られずに演奏するか。
そのことだけを考えて来た。
ここから観える話とは?
生活全般に同じことが言えるというわけ。
みんな、嘘を教えられているから。
その嘘を信じて生きている。
そして。。。
嘘の上に嘘が重なって
真実が生み出され
真実は闇へと葬られるのが
この世の常。
経験のある人は多いはず。
自分が何かを突き詰めていくと
嘘で塗り固められた「真実」が
顔をのぞかせる。
クラシック音楽も同じことなのだ。
今、多くの演奏家が行う演奏は
あるひとつの価値観に基づいて行われている。
それは何かと言うなら
テンポとはひとつ
この考え方だ。
でもテンポはいくつもある。
そして、今のテンポと次のテンポが
同じフレーズのなかでも
違っていい。
それは、でも、業界ではタブー。
なぜ?こうなったのか?
皆が信じているからだ。
フルトヴェングラーのRIASの演奏の
第1枚目。田園交響楽。
テンポはいくつあっても良い。
その証明のようなものだ。
心地良い。
なぜ、これが受け継がれなかったのか?
少なくとも私の師匠は
フルトヴェングラーのこの考えを
受け継いでいた。
でも、その長い旅路は
果てしのない戦いの旅路だった。
あのカラヤンが「Karajan in Salzburg」という
ドキュメンタリーで
モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の公演後
細君のエリエッテさんにこう語っていた。
「フルトヴェングラー」
彼の中にあったフルヴェンに対する意識は
いかほどのものだったのか。
マークはその最晩年、常にこう語っていた。
「ダイ、わたしは自分の高みにいるか?」
音楽を観る。
そう。音楽は観るもの。
シェイクスピアの息せききった語り口のように
ドラマが生まれる音楽がある。
そこには沢山のイノチがある。
イノチはテンポ。
イノチはひとつじゃない。
テンポもひとつじゃない。
フルトヴェングラーはそれを教えてくれる。
むーらん
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