大事なのは人間の気持ちだと思うけれど、あなたはどう考えるか?

どうも。むーらんです。

わたし、自分の言葉について
修正しなきゃいけないと思いまして。

わたし、昭和の価値観を
全否定しているわけではないんです。

わたしも昭和の人間ですから。笑

しかも、自分のアイデンティティは
昭和にありますし。

同じような話で
海外の話をするときに

海外が日本より優れている、と思ったことは
ほとんどないわけです。

でも日本人として
日本のことや、この社会を
もっと良くなってもらいたい

そう思って検証したり、行動したりすれば
どうしても問題点を指摘せざるを得ないわけです。

それと同じこと、と理解してくださいね。

だから昭和は検証すべき、大事な点なのです。

検証するという作業は
みんなが、ひとりひとり
自分のなかで行わなければならない。

そういうことです。

さて。。。

今の、現代社会の歪みのなかで
みんなが苦しんでいる問題点というのは

おそらく昭和だけでなく
平成だけでなく
日本では昔からあった
周知の問題点なんだ、と思います。

人が本当の意味で
「自由」や「幸せ」を感じられなかったりすること。

これには、時代も関係します。

そういった「自由や幸せ」を追い求めれば

ややこしいことに
今度は「責任」がどこかに消えてしまう。

そんなもんですね。

こちらを立てれば、あちらが立たず。

じゃあ、全てがうまくいく方法があるのか?

そんなもん、あるわけねーだろ!と
なりそうですが

正直これが「ない」とすれば
面白くないでしょ?

物事は全てにおいて、捉え方次第。

ものの観方を変えさえすれば
全てがうまくいく方法も
あると思うワケです。

それを探すための検証作業、と理解してください。

批判しているだけでは、進歩はないですから。

実は、昭和を戦前、戦後、という風に
括るのもおかしいのかもしれないんです。

昭和、平成、と括るのも、おかしいのかもしれない。

でも便宜上、そう言わざるを得ないので
私は、そう言っています。

そんな中で、自分が考えることを
ここに、自分の言葉で書いているんです。

その中には当然ながら

言い過ぎたり
矛盾もたくさんあると思います。

そういうことです。

さて、前置きが長くなりました。。。
いつものことですが。(笑)

日本や日本人を守る。

これ、私の信条です。
実は音楽をしながら
これをずーっと考えていました。

海外で生きていたら
多くの方がそういう思いになると思います。

そういう「日本を守る」という立場から
もう一度、小野田さんの話を聞きました。

https://youtu.be/TEAez31LoQQ

このビデオで
小野田さんの横に
座っておられるのは
中川昭一さんですね。

靖国神社でのお話のようです。

この集いはかなり
保守の考えが強い方たちが
お話になられる会ですが

大事なことを仰っておられます。

でも、正直偏ってはいけない、という
ブレーキがかかります。

私も靖国神社に参拝しますが
この兵隊さんたちの体験の
その強烈さのなかには

矛盾も存在するわけです。

それもまた、彼らの真実です。

そのことに
敬意を持ちながら

しっかり考えることをしないといけない。

それは例えば「自己犠牲」という価値が
昭和の初期では
ひょっとしたら「当然の価値」だったものが

平成の30年では変わってしまったと嘆くのか。

それとも

平成の30年で「やっと」終わったと安堵するのか。

その辺り、非常に大事なんですね。

自己犠牲とは、美しいもの、ばかりではなく
それによって
人のイノチが「ぞんざいに」扱われたりする

そんな危険性があるわけです。

イノチというか尊厳とも言いましょうか。

自己犠牲の美しさを強調すれば
他方では
社会のなかの歪みが浮き彫りになって

同調圧力による「個の尊厳」の破壊が進行したりする。

時代とは、そういう流れを持ち
そういうエネルギーを持つわけです。

「必要に迫られて」

自己犠牲の精神が、美しく、美化されたりする。

でもこれは、キリスト教でも
同じことを感じます。

つまり「自己犠牲」の美しさを説くなら

それは集団でとらえていはいけないんです。

あくまで、「個人の判断」に委ねられてしかるべき、なんですね。そこがこうやって、保守として群れたときに、起こってくる問題点です。

でも、大事な価値であることは、小野田さん他が
仰っておられる通りなんです。

だから、扱いが難しくなる。

自己犠牲が「美しく」描かれ過ぎると

自己犠牲を受け入れられない方たちを
弱者として非国民呼ばわりする

そんなひどい時代もあったわけですから。

保守の人たちは、そこは本当に気を付けていかないと。

でも逆に、日本人の特性は
この「自己犠牲」のなかに活かされていたりする。

だから、私のなかでは
この2つの考え方が
互いに矛盾し合っているのです。

その矛盾のなかで
2つの相反する考えが
互いに手を取り合うためには

つまり、自己犠牲を「他人に」強いることは
止めた方が良い、ということになります。

でも一方では
日本人がそういった「自己犠牲」の観念と行動を失えば

日本という船が
ガラガラと音を立てて崩れていくような気がするのです。

そのくらい、私たちの文化伝統には
「自己犠牲の精神」が受け継がれているような
気がするのですね。

自己犠牲、という言葉を使うから
おかしなことになるのかもしれませんね。

滅私奉公、という言葉だったはずなんです。
最初は。

それが自己犠牲になった。

それなら、自己犠牲から、別の言葉に置き換えれば
視点が変わって、あらたな時代に必要な価値を
提供できるんじゃないか?

つまり、そうやって観方が変われば
昭和の価値を受け継ぎながらも

現代を自由と幸せを希求して生きていくことが
きっとできると思うんです。

そういった視点の変化

もっと高いところから
物事を観る視座が必要、と思うわけです。

小野田さんの仰ることも大事なんです。
靖国神社の話も、すごく大事です。

そこに帰ることができるから
自己犠牲を払って
国のために死んでいった人達がいる。

そこに感謝することは
絶対的に大事なことなんです。

その真実を真正面から受け止めながら
日本という祖国を守る気概を持ちながら

大事だと思うのは

時代の流れを観ながら

行き過ぎることなく
過度に自己犠牲を「他人に強いることなく」

人には優しく、でも、なめられることなく

他国には寛容で、でも、なめられることなく

ちゃんと言うべきことを言い
自分が誰かを知り

日本が何かを問い続け

常に一方のイデオロギーに偏ることなく

全ての人の幸せを満たせすことが可能になる選択を
するべき時が、今まさに来ていると思うのです。

田中角栄さんが
昔、左翼の長の方の葬式、
自分の政敵だった人の葬儀に出席した際

息子さんが「パパ、何故あの人の葬儀に行くの?」と
訊いたそうです。

そうしたら、角栄さん。

「あいつも国を守るために戦って来た」と言ったそうです。

角栄さんは、もちろん分かっていたわけですよね。

自分もひとつの「機能」でしかない、ということを。

だから、自分という機能に対抗して
殺そうとまでする人を

「国を守るためにやっている」と
評価というか

ちゃんと「認識」して、尊重しているんです。

イデオロギーとか宗教は
行き過ぎると、現実を見失います。

派閥や政治信条も、同じことです。

大事なことは、自分も時代も含めた全体を
ひろく俯瞰して観る眼を持つことです。

因みに音楽とはそのために役立ちます。

単なる娯楽や教養ではないです。

そういった眼を養う教育を
子供だけでなく

あなたが、自分に行っているかどうかを
本当にこれから問うていかないと

海外からの外圧によって
日本はなくなってしまうはずです。

みんなが、同じ意見を持つことは
日本について言うなら
危険なことだと理解しています。

だから、皆があえて、自分の意見を持ち
違う意見をまっすぐに聴く耳をもち

自分や全体を超えた眼を持つことが
今本当に問われています。

年寄りも若い人も、オジサンもオバサンも
じいちゃんもばあちゃんも
男も女もゲイも(全部言ったか?)

みんなが、自分の意見を持つことができる時代が
遂にやって来たことを祝して。

今日も素敵な一日を。

むーらんより

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