我が家には今二つの花が活けてある。
ひとつはUさんからのバラの花束。
そしてもうひとつは外語の後輩からもらった花束。
どちらも美しい。
花には贈る人のセンスや気持ち、背景などが写し出されるような気がする。
僕は花が好きだ。
よくオーケストラの人に「ここはお花畑」などと言ってイメージを伝えようとするが、
多くの方は笑っておられるかもしれない。
でもそれは昔からのこと。
気がついたら音のイメージと花は僕の中で結びついていた。
はっきり記憶しているのは、ルーマニアのあるオーケストラとの一シーン。
その時からこの表現を使うようになっていった。
でももちろんこの表現、そんなに使える場所はないのだけれど。だから大切にしまってある。
花で言えば、ヨーロッパではいい花にあまり出会わない。
でも僕の友人のマリルは花のデコレーターで、歌劇場を白と緑で覆っていた。
テアトロ・マッシモの再開記念1997はマリルの演出で素晴らしいものになった。
この二色はシチリアの色。
これにレモンが加われば、完成する。
おそらく劇場内の光をレモンと見るなら、白(ジャスミン)と緑で充分なのかもしれない。
花で印象的なのはアメリカ映画のオープニング。
題字を出すまでの数分間によくつかわれるような気がする。
アメリカの花の演出は、エンターテイメント性が強く、すっごく華やかだしきらびやか。
日本の花はおそらく世界で一番品質がいいのでは?
そしてお花屋さんで作られる花束は、日本が最高のセンスだと思う。
でもこのセンス、とても和風でアメリカのエンターテイメントとは少し趣を異にしている。
京都でいつだったか友人宅に招かれたとき、タクシーで京都駅から最寄のお花屋さんに連れて行ってもらった。
花束のプレゼントは喜ばれるから。
出来上がったものは、和紙や和風の紐を使ったアレンジメント。すごく素敵だった。
今日ある素敵なワンシーンに出会った。
ビデオに残っていたNHKスペシャルの思い出の場所スペシャル。
大好きな平原綾香の歌とともに始まったが、
そこであるカメラマンの伊勢神宮に対する感想ドキュメントが印象に残った。
彼女はアメリカのグラウンドゼロを見て、
アメリカ在住邦人としてのアイデンテイテイを失い、
その後聖域巡りをして世界中を回る。
最後にたどりつくのがお伊勢さま。
お伊勢さまで感じる「見えないものの大切さ」を、グラウンドゼロの「見えるだけの世界」と対比してみせた。
音には立ち上がる霊気のようなものがある。
音楽家はセンシビリテイさえちゃんとしていれば、
それを見て生きていける人が多いはず。
われわれ音楽家は「見えないもの」を扱う存在だ。
私が先日伊勢めぐりを敢行したときに見たものは、
実は宮崎駿さんの「千と千尋」さながらの光景だった。
多くの人が神殿に押し寄せていく。
でも土地から感じられる磁場はものすごいものだった。
浄化の作用。
エネルギーは上へ上へと昇華していく。
カメラマンの方は「そこに大木があるから」と強調するが、
僕の眼には気のベクトルが天へと向かうように見えた。
これは音が立ち上がるときの光景とどこか似ている。
カメラマンさんは、NHKの番組のなかで日本の1300年続いた遷宮の儀式の中に「見えないもの」がある、と言っていたけれど、ハコモノ行政だったり点数至上主義だったり、今の日本のあり方や方向性とは対極にある。
「見えるもの」に、果たして残るものはあるのだろうか?すべてのものは朽ち果てていく。
でもエネルギーは人の心に宿り、その瞬間や場を共有できれば、魂が癒されて、時は止まり、永遠を共有できる。
そう、見えないものって大切。音楽も消えてしまうからこそ意味があったりする。
形あるものを僕は別に否定しないけれど、
形から入るってことをめったやたらに振り回すのは、もう時代が要求していないかも。
目の前のチェコグラスに入った薔薇は、合わせて20本。
一本ではパワーにならないと思うけれど、これだけたくさん集まっているからこそ、大きな力になっている。
一本ではダメでも、たくさんが寄り合えば、
人を癒すほどの力を得ると思う。
ここがヒントですかね。
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