Lo spagnolo!
(イタリア語で「スペイン人」の意)
ハリウッド映画「グラデイエーター」は
封切り当初
ローマで見たんですが
イタリアは映画館全部
イタリア語に吹き替えなんです。。。
主人公マッシモ(マクシムス)は
「スペイン人」と
そう呼ばれていました。。。
スペイン語を母国語とする
アルゼンチン人ピアニストの
クラウデイオ・アラウには
ドビュッシーの音楽に見え隠れする
スペイン訛りをつかって
音を
単なる「印象」ではなく
「人の気配」にする力があります。
今日はそのお話
先日他界された
指揮者の若杉弘さんが
メシアンとブルックナーを結びつけたことは
一大カルチャーショック!でした。
ちなみに本番聞いてませんよ。
プログラム見てこりゃ面白いと思ったんです。
東京都響との演奏だったように記憶します。
場所:サントリーホールだったかな。
ショック! でした
自分は思いつかなかったからね。
でも
僕はメシアンを人として感じられるような音体験って
できたこと
実は
まだ一度もないんです。
これはブーレーズにも言えることですが
大戦後のフランス音楽は
僕の知る限り
泥臭さが排除されてしまい
外国趣味がなくなって
音のエレメントは
すべて形而上学的っていうか
無機質って言うか。
近代(戦後)フランスという国は
泥臭いことがお嫌いな国になったんですね。
でも良く考えてみると
結局世紀末にしても
ピカソが仮面をアフリカから
持ってきたことに象徴されるように
アフリカやアラブ、東洋のエレメントを「借りて」
それを自分の人としての自覚にまで掘り下げないと
探しても自分が見つからない
そんな民族なのではないか。
ふと思いますね~
フランス人さんごめんなさい
「泥臭さの欠如」
その意味で
若杉さんのメシアン~ブルックナーを考えた時
。。。。。
いろいろ出てくるでしょ?
。。。。。
ブルックナーについて
ケン・ラッセルの映画がありますが
数字ずっと数えてる。
これ傑作なんですが
映画でずーっと数字数えてる
セックスの間も数字数えてる(笑)!
で泥臭い。
音の中に祈りはあっても
無機質じゃないんです。
っていうか
祈りは
泥臭いものと表裏一体なんだと思います!
でないと浄化されませんからね。
ブルックナーのその
土臭さに
日本人「魂」とやらが引っ張られますね。
われわれ
そういうの好きでしょう?
ドイツ語で
あるキャラクターを表現するとき
Bayerische Bodentanz
(バイエルンの土俗的舞踊とでも訳しますが)
と良く現地の知識人が表現する
その感じが
どんなにソフィステイケートされた音にも
感じられる
というか
作曲家の顔が見えるんですね
自然を模倣し
神を己が内に見たとき
究極的には
作品が自分(作曲家)と一体になり
作品の一部分でさえ
自分を写す鏡となる
まあいろいろむっつかしい話してますが(笑)
フランスは
ストラヴィンスキーやピカソなど
外国人の泥臭さが
結局時代を作ってきたのでは。。。
なんて思うわけです。
印象派にしたって
スペインや東洋やロシア的なものの
アレンジメントあるいはマネージメントだったりするわけで。。。
結局
その泥臭さ以外に
「人の気配」ってないんですわ。
そういうことです。
大好きではありますが。
日本とは違いますよね。
日本人演奏家って
自分も含めて
フランス音楽得意なんですよ。
でもよく考えてみると
本当のフランスに出会ってるのかなって。
ケッコウ「人間臭い」ところまで
つきつめなくても
音として完結させやすいから
「印象」で弾いていればいいから
楽してるんじゃないか。
やっぱり
でもフランスの本質を見つめた時
アラウのドビュッシーに見られるような
「人間性」に結び付いた部分を
追求できたらいいなと
思うわけです
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