自虐的ではない自己批判〜指揮者総論〜

これは2010年4月15日のブログから。

本日4月15日付の日本経済新聞紙上で、尊敬する先輩指揮者の言葉が掲載されていた。

「日本のオーケストラの力量が飛躍的に向上して、ろくに楽譜の読めない指揮者でも

音を出せるようになった」そうだ。

この言葉、指揮者であるわが身にあてはめてみた。

「日本のオーケストラの力量が飛躍的に向上した」

これはホントのことだ。世界一のレベルにまで来ている。

そのお蔭で楽譜がろくに読めなくても、簡単に音が出せるのだろうか?

音を出すとはどういうことなのか。音は出ても、音楽になるかどうか。

音を提供する側だけのことでなく、音の聴き手によっても音楽の判断は違う。

某政党の政策が、国民の声を反映するか否かと近いものがある。

オーケストラが政党だとすれば

聴衆は国民である。

ちなみにオーケストラは選民である。

選ばれた民、国民からというより

天から選ばれた民族であり

宗教的に言うなら

神の栄光を表す役職である。

指揮者にもいろいろあって

自分を「芸術家」と認識する指揮者もいれば

自分を「親分」と認識する指揮者もいる。

あるいは自分を「仲間(集団の一員)」と認識する指揮者もいる。

政治家小池百合子氏の言葉をまた引用するが

「同じ富士山をめざしていれば

どこから登っても同じところに着くはず」

(引用しているうちに私の私見がはいってきて

言葉そのものが劣化している。。。小池さんお許しを)

だとするなら

同じ富士

同じ価値観を共有していなければ

同じところには着けないはず。

信教の自由がある国で

さまざまな価値観があるはずの日本だが

どの分野でも価値観を規定しようとする動きがあるのは

自然なのかもしれない。

民主主義は価値を単一化する傾向がある。

多数決は

みんなで価値をひとつに限定する行為とも取れる。

でも音楽は政治ではない。むしろ宗教の分野から生まれてきたものである。

今気がついたが

政教分離が必要だとするなら

ひょっとすると

日本の藝術的な分野は

民主主義に毒されて

政教分離すらできてない場合が多くないだろうか?

音楽の分野を「藝術」と位置づけるなら

価値の縛りは危険である。

指揮者の役割とは

政治とは違い

狭義の価値観ではなく

広義の可能性を探ることにあるのではないか。

わたしはこれは極論だが

指揮者とは

「そこに立てるか」どうかだと思っている。

オーケストラの前に本当の意味で立てるのか。

ある意味裸にされているわけで

自分のすべてが露呈してしまう職業である。

あまり心配しなくても

みなそれなりに自分の信教の自由に基づいて

それぞれの富士山を登ればいい

そう結論づけるのだがいかがでしょうか?

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