リュッケルトの詩(6) Spaziergang mit Purgstall…プルクシュタールとの散歩

Joseph Freiherr von Hammer-Purgstall(1774~1856)

リュッケルトはローマからウイーンに渡り

そこでこのプルクシュタールと出会う。

この出会いが何を意味するのか。

プルクシュタールはオーストリアの東洋学者で

グラーツの役人の家庭に育ち

14歳まではグラーツのギュムナージウム(高校)に通い

その後15歳でウイーンの東洋言語王立アカデミーに入学。

(Die k.k.Akademie für Orientalische Sprachen in Wien)

外交官養成機関である同所に5年在籍の間

トルコ語、ペルシャ語、アラビア語、イタリア語、フランス語、ラテン語そして

古代ギリシャ語を習得する。

16歳で既にウイーンを訪れたトルコ代表団の通訳をしたというから

これもまた驚き。

卒業後は翻訳にも従事し

トルコの知識人カジイ・カリファ(Kajji Khalifa)の手になる

百科事典の翻訳を始める。1799年に初めてイスタンブールを訪れ

同地でイギリス将校の通訳として働く中

ロンドンまで随伴、英語を習得し

パリではSilvestre de Sacyという東洋学者に出会い

1801年ウイーンに帰郷した。

1802年にはイスタンブールのオーストリア代表の秘書となり

ギリシャやトルコを訪問しながら小説や翻訳(千夜一夜物語)を行う。

だが代表とのそりが合わず

4年後にモルダヴィアのJassyに配置換えとなった。

翌年1807年はウイーンの宮廷通訳となり

1809~1818年にわたってFundgruben des Orientsという雑誌を刊行。

1817年には宮廷顧問となり

Joseph von Heniksteinの娘Caroline von Feniksteinと結婚する。

友人でもあったWenzel Johann Purgstall伯爵(ヴェンツエル・ヨハン)と

その息子の死によって

友人の妻でスコットランド生まれの伯爵夫人

Jane Anne von Purgstallの養子に入る。(驚!)

彼はそこで名実ともに

シュタイヤーマーク地方のハインフェルト城の後継者となり

最終的には1835年にフォン・ハンマー・プルクシュタールの名で

男爵の地位に格上げされた。

その後完全に文学へと身を捧げるが

オーストリアの現状を批判する雑誌の刊行に共同執筆する中

メッテルニヒと衝突してウイーンで物議を醸すこととなり

公的な場所での仕事をせず家にこもることとなる。

彼の訳したDiwan des Hafis(ハフィスの抒情詩:1812年)が

ゲーテにインスピレーションを与えたことで有名で

そこからゲーテの13巻に亘る

West-Oestlicher Divan(西東詩集:1819年)が生まれている。

ちなみに「ズライカの巻」はもっとも有名であり

シューマンなどの手によって作曲された

Lied der Suleika「ズライカの歌」はあまりにも有名である。

不思議なことだが

ゲーテとプルクシュタールが対面した事実は

どこにも記載されていない。

1810年からはプルクシュタールはオーストリア科学アカデミーの創立に尽力し

1847年になってようやく設立され

その初代総長を務め

1856年に死去した。

彼の名前を冠した「ハンマー・プルクシュタール協会」が

1958年に創立され

死後125周年にオーストリアの記念切手が発行されている。

(上記参考文献はWikipediaのみ)

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