リュッケルトの詩(8) イスラム経典コーランの翻訳

~前口上~

以下はwikipediaドイツ語文にコメントを付け加えたもので、引用なども全てWikiですのでご注意あれ。

ご興味ある方はヴィキペデイアのドイツ語版で”Koranuebersetzung” をご覧ください。

さて。。。今日はコーランの翻訳の歴史です。長いです。

アラビア語で書かれたイスラムの経典「コーラン」を他の言語に翻訳することは、イスラム教の神学者によれば

「いずれも翻訳という名の解釈」に過ぎないとのこと。

コーランのテキストそのものの中に、

「神こそがお前にこの書を贈り与え給うた。原本のみがそれにふさわしく、ひとつの意味だけを示しうるが

原本以外の書については多くの意味に解釈され得る」とある。

従ってコーランを学ぶにあたっては、アラビア語のオリジナルテキストを勧められるそうだ。

コーランの翻訳の歴史はビザンチン時代に遡り、まずはギリシャ語の部分訳が存在するが

ヨーロッパ諸国に有名となったのは何と言ってもラテン語訳。

1143年にフランスのある修道院長の命を受けて、

イギリス人のケットン、ユダヤ教徒、キリスト教僧侶たちが、スペインの地で編纂したという。

(実はかの有名なクリュニー修道院長ペトルス・ヴェネラビリスのことである。

こう来ると「薔薇の名前」を思い出すのは僕だけか?)

危険物を扱う様子が眼に浮かぶようだ。

その翻訳書が世に出るのは1543年、チューリヒの神学者テオドール・ビブリアンダーが校正し直したものを、

スイスのバーゼルで印刷している。

だがその翻訳の質そのものに関しては、かなり自由な解釈と部分的に意図的な変更が行われているそうで、

あまり中身に信がおけないという。

だがこの訳本が後にドイツ語・オランダ語・イタリア語コーラン翻訳の原点になっていく。

ヨハンネス・セゴヴィアはその他界直前に「コーラン」翻訳を行っているが

上記のケットンたちの翻訳の不具合を直すべく、アラビア語からスペイン語へ一旦翻訳の後

スペイン語からラテン語へ翻訳している。

1616年にはドイツのニュルンベルクでザロモン・シュヴァイッガーにより

267ページにも及ぶドイツ語の初翻訳が成された。

タイトルは「トルコのアルコラン、宗教と異教」。

だがこの翻訳はイタリア語が原本となっており、その原本もラテン語が基礎になっていた。

1647年には遂に原語アラビア語からフランス語への翻訳が行われる。

この翻訳をおこなったのは、外交官として中東のフランス公使に長期間任ぜられていた人物であり、

この版についてはイスラム教のコーラン注釈も添えてあるという。

1698年にはイタリアのパドヴァで、ルドヴィーコ・マラッチ神父(1612=1700)が特筆すべき翻訳を敢行している。

ここではアラビア語の原文に加え、ラテン語の訳が対訳としても載せられており、

テキストの理解のためと見解の相違としてのローマンカトリック的視点から、注釈が載せられている。

(このマラッチ神父はローマ法王インノチェンツイウス11世と関係が深いことも作用している。)

その時代の流れのせいだろうか、

法王アレクサンダー7世のもと、コーランの印刷および翻訳は禁止されることとなった。

マラッチ神父のラテン語訳は1703年にドイツ語に訳されている。

ドイツ語翻訳といえば1746年にもテオドール・アーノルドにより

英国人ジョージ・セール(1697-1736)が1734年に訳した英語訳からドイツ語に翻訳されたものがあり、

この訳はやがてゲーテによって、「西東詩集 West-östlichen Diwan」に使われて後世に残っていく。

アラビア語からドイツ語への直接訳として最初のものが

David Friedrich megerlin(1699-1778)による「トルコの聖書、あるいはコーラン」という訳である。

但し注意書きとして「モハメッド、偽りの預言者Mahumed, der falsche Prophet」となっており、

頭からイスラムを否定する形だ。これをゲーテが「哀れなる作品」と公けに批判している。

この時期はカトリック教会による強烈な批判精神のもとにコーランの翻訳がなされたと言える。

1798年にしてヨハン・ヴィルヘルム・アウグステイにより

ようやくコーランが持つ詩的な韻感をたたえた訳本が生まれる。

それからようやく先日ご紹介したプルクシュタールの訳となる。

部分訳ではあるが、1888年の時点ではもっとも素晴らしいドイツ語訳という評価を得ているのだ。

さて我らがリュッケルトは、この系譜に対して何をしたかというと

コーランの俗に言う「sprachliches Kustwerk besonderer Art

(特別な方法論による言葉の藝術)」という側面を、訳文でいかに表現できるかを追求したようだ。

コーランの持つ詩韻や形式を重んじて、藝術的側面を強調したようである。

最後にリュッケルトがプルクシュタールからペルシャ語を学んだと先日書いているが

それはWikipediaのドイツ語版に書いてある史実であって

以上のコーラン翻訳史をたどってみる限り、アラビア語の原文から翻訳したと考えられなくはない。

リュッケルトがプルクシュタールに出会う前、既にアラビア語を習得していたかどうかは定かではない。

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