今日も「自由と豊かさ」について
お話しようと思うけれど
今日はため口ききますね。
どうかお許しあれ!
さて。。。
私ある日
イタリアでラジオを
聴いていたんだよね。
そうしたら
日本人の有名な
ヴァイオリンの方の
リサイタルをやっていた。
フランクのヴァイオリン・ソナタ。
演奏会が終わった後に
イタリア国営放送の
有名な音楽評論家が
その演奏をボロクソに酷評したのね。
イタリア語のレトリックは
非常にややこしいけど
10年も経つとよーく分かるわけ。
言葉じゃなくて
彼らが本当に言わんと
しているところ
いわゆる空気感があるのね。
しきりにPoesia、英語でいうポエジー
つまり「詩観」の話になるわけ。
「技術ばかりでオリジナリティがない」
みたいなことを
しきりに言ってるのがわかる。
最終的には
「音楽はもっと楽しいもんだ。
自分が楽しみ方を
知らない奴の演奏は
ちっとも面白くない。」
と、そう言っていた。
まあ、たしかに面白くないよな。
技術的には完璧だけど
なんかこう、つまんないわけだ。
でも私はその時に
「まあ、これもありだよ」
と、そう思って
必ずしも
そのイタリア人に
賛成はしなかったのね。
人間のすることに
完璧はないんだよね。
人間の社会って
「間違えること」
が前提でできてるじゃない?
本来ならね。
でも所属する社会によるんだよね。
絶対に「間違えたらいけない」
実はそんなコミュニティも
あったりする。
日本人の価値観って
多分いまだにさ。
「間違えることを
前提に出来ていない」
そういう場合が
結構多いと思う。
だからみんなが選ぶ道が
楽な方じゃなくて
わざわざシンドい方を
選ぶことが多いみたい。
誰かの成功体験とか聞いていると
「私はいつも
難しい方法を選んで
ここまで来ました!」
そんな人ばっかり。
楽な方法はとっちゃいけない
みたいな。
私もそういう人達に
これまで沢山出逢いました。
日本人の成功者って
そういう人が多いんだよ。
だから苦労話が多いよね。
でもね。
本当のチカラや能力とは
実は現実と必死に向き合うことよりも
現実から一歩下がって
俯瞰できるチカラがあるか?
今いる場所から視点を変えられるか?
にかかっていると思うんだよね。
イタリア人も
演奏した日本人も
その両方の言い分には
ちゃんと意味があると
そう思うんだ。
ここでは日本人についてだけ語るね。
日本がそういう
難しくて厳しい社会なんだから
そういう
なんかこう
つまんない音
綺麗だし完璧だけど
味気ないっていうかさ。
まじめで厳しそうな音楽が
日本人のなかからは
流れ出て来るんだよね。
音楽する喜びが
身体中からほとばしる
とかじゃなくて
すごく一生懸命
お金もいっぱいかけて
努力して
大変な苦労もして
これまでコンクールに優勝して。
大変な思いの末に
辿り着いた。。。
え?どんな境地?
それは別に良し悪しではなく
日本人だからもう
そういうのが
当たり前なんだ。
しょうがないんだよね。
どういうわけだか
やっている本人たちが
愉しめなくなってるんだよね。
俺たち日本人だからさ。
わかるんだよ。
それが。痛いほど。
ローマの茶室でお茶点てて
緊張しちゃってもう
息が上がるから
よく注意されるんだけど
外国の人達って
別に注意されても
平気なんだ。
先生にも完璧ため口で
シタの名前でよんじゃうし。
でも息が上がらないワケ。
なんでだろうね。
日本人だけは
息がずっと浅いんだね。
息がふかーくならない。
外国人の方の点前は
ゆったりして美しい。
なんかこう
全然ちがうんだ。
その雰囲気が。
あいつら、愉しんでやがる。
だから息がふかーいの。
もう羨ましいったら
ありゃしないんだ。
豊かなんだよね。
あいつら。
自由だし豊かなのね。
日本人は
間違えないように必死だから
茶の湯の稽古では
段取りばかりが目立つし
息が浅くて
美しいとは思えないよね。
日本人の「風流」ってさ。
茶道具とか
一流のもの揃えてたりするけど
本当に豊かなのかなあ、って思う。
わかるでしょ?
全然違う話だけど
やっぱり同じことを
別のところで感じたのはね。
舞台の上で
オーディションを受ける歌手たちは
見ていると面白いんだよ。
外国の劇場では
日本人がオーディションを受けるとき
別にプロフィールの
資料を見なくても
その人が日本人かどうか
割に判別しやすいの。
理由は大抵の場合
日本人って舞台の上で
ぜんぜん堂々としてないから。
小走りに舞台に
「タタタっ」て来ちゃう人が
滅多やたらに多いんだよね。
何で日本人ってこうなのかなあ。
それで考えてみたワケ。
これ、彼らのせいじゃないんだよ。
社会なんだよね。原因は。
音って実は思想なの。
考えたことが全部が全部
音になるんだ。
コワイんだよ。(笑)
音は合わせちゃダメ。
これはもう、
個人に「死ね」というのと同じ。
音とは自然に「寄り添う」ものなの。
だから音をさ
「点に合わせた」時点で
その人や組織は
もう考えることを放棄してるわけ。
だって、その人の意識が
みんな一点に集中したら
ただのデジタル音しかでないじゃない。
そんなのダメでしょ。
響きってのはね。
ずれたところから
生まれるんだよ。
「みんなで一緒に」って
一億超える日本国民が
みんなで音合わせてたら
どこかのミサイル打ってくる国と
大差ないんだよ。
でも日本では
そうやって社会も
音楽学校も
おそらくは
オーケストラも
「合わせる」ことに
価値を置くのね。
もし誰かが間違ったら
「あー、あの野郎」
ってまるでヤクザの集団みたいに
声を上げるやつが出てきちゃう。
それが「正しい」って
みんなが思う国って
すごく不思議。
みんな無意識に
ヤクザと同じことをしても
許されるんだよね。
不思議な国だよね。
音をずらすのは
微妙なタイミングなの。
ちゃんと目的があるから
音をずらすわけ。
ズレるんじゃなくて、ずらす。
それをコントロールして行くと
ある一つの世界観が生まれる。
つまり私が今日言いたいのは
「響きは文化」
ということなの。
その中に「強さ」や「重さ」を持ち込んで
エッへンとやるのは
時代遅れのバカだけがやるんだ。
ちゃんと周りが見えて
音が聞こえるためには
「強すぎない」
「優しさ」
「上澄みの選りすぐった
一番軽くて気持ち良いところ」
の音を提供するわけ。
しかも寄り添わせるの。
合わせるんじゃないの。
だって闇雲に合わせたら
あなたの意志が
そこに反映されないじゃない?
あなたの意志を表明することは
合わせることじゃない。
寄り添わせるの。
そうやって
あなたのやっていることが
ちゃんと主張して
そこで起こった責任は
あなたがとるの。
でも失敗は織り込み済み。
でもやってみる価値があるわけ。
そうやって社会が
成り立たなきゃ。
一点に集中した音には余裕がない。
まるで絞り切った雑巾だよ。
カラカラに乾いて、中身が無い。
雑巾は絞るんだけど
その手を「ふっと」緩めるんだよね。
そうすると手に隙間ができる。
掴んだものを離さないで
手の中で自由にしてやる。
そうすると雑巾だって自ら動くじゃない。
集中にもそんな違う二種の集中があるよね。
楽しい種類の集中。
絞り切らないフワッとした集中。
ずらすわけ。
そのタイミングを
完全に感覚化できるようになると
世界観が変わってくる。
ずらすことは
技術じゃない
目的でもない
全体も個人も活かす道になる。
それを無意識のうちに
できるようになるのが
本当のチカラだと思うわけ。
私の音楽はすべてそうやって
出来上がってきたもの。
だって、ホロヴィッツから
そうやって教わったもん。
調べて行くと、
往年の大ピアニストは
みんな音をずらしていた。
何故か?
それが文化なの。
文化の中枢にある
「粋」というやつ。
ずらす芸術こそ
ロックンロール。
違う?
今日も素敵な一日を!
横浜の自宅から
村中大祐
追伸:
何か私に訊いてみたい
あるいは
言いたいことがあれば
mail@afia.info
こちらまでどうぞ。
出来る限りお返事します。
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