From:村中大祐
私の夢はその昔、ヨーロッパの人たちと同じ土俵で、
もっと言えば「できる限り」同じ条件で音楽を感じることが
できるようになりたい、ということだった。
もちろん20歳を過ぎるまで一度も外国に出たことのなかった
純粋な日本人だったわけで
普段から日本人全体が抱えている「外国への憧れ」が生み出す根拠のない話、たとえば
「外国は素晴らしくて日本はどうしても劣る」
「外国人は格好いいが日本人は手足が短い」
「外国のものは優れているが、日本のものは焼き直しばかり」
みたいな一般論は当然耳に入って洗脳されていた。
確かに高度成長の時代を見れば、日本のものが優れていたとは
お世辞にも言えない場合もあったかもしれない。
でも今の日本を見る限りにおいて、そういった感は全くと言ってよいほどにない。
でも例えば東芝やシャープといった、絶対に潰れるわけがないと思っていた大企業が破たんをきたしている事実を考えたとき
私の目には、その背後に「外国に対する不当なまでの劣等感」が生み出す何か、があるような気がしてならなかったのだ。
Japan Originalという考え方。
自分のなかからInside Outして作り出すルールだったり
基準だったり。そういったものがないと、いつまでも
他者のルールで相撲をとらされることになる。
私は大きな破たんをきたした2大企業のなかに、
昭和から引き継いだ「外国への劣等感」が
しっかり残っていたのが、一番大きな原因のような気がした。
外国語の取り扱い。
私は普段から5か国語を毎日のように使う仕事のため
この問題と向き合わざるを得なかった。
習得するのに時間とお金、ものすごい努力をしたはずだが
そこで出てきた答えのひとつは
「外国語を使う」=「違った視点を学ぶ」
なのだが、それはつまるところ
外国の人たちに、私たちの鏡になってもらう
ということだったように思う。
やればやるほど、自分に答えを求められる。
外国語の習得とはそのようなもの。
自分の中に答えを見つけざるを得なくなる。
つまり「自分を知る」「日本を知る」ことにつながるわけだ。
音楽家のアタマとは、結局そういったもので
音楽さえ、自分の鏡であり
自分や自分たちを知る鏡と
毎日向き合っているワケ。
異文化を受け入れることは
そういった「自分と違う」鏡に
自分を映してみて
自分の姿をはっきりとそこに確認する作業。
外国語を「使う」というのは
そういうことのような気がする。
そして更に言うなら
仕事や勉強といったすべての事柄も
鏡として存在する。
仕事に精進したり、勉強を深めたりする行為は
自分を映しだす鏡を磨くこと。
素敵な一日を!
ヨコハマの自宅より
村中大祐
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