イギリスで指揮の仕事をするのは
2002年、グラインドボーン音楽祭
からのことだった。
当時の僕のマネージャーが
いきなりパレルモの公演に来て
グラインドボーンに連れていかれた。笑
イタリア語の環境から
英語に切り替わるのが辛いのは
自分が過去に英語で
劣等感を持ったからだった。
英語の点数はお世辞にも
良いものとは言えなかったし
そもそも、ウィーンから
ローマに転居した時は
まだイタリア語がそれほど
話せたわけではなく
そこから、今度は
過去劣等生だった英語を使うなど
「あり得ない」と思うばかりだった。
とは言え、国際通用語である英語。
出来ないと話にはならない。
ラジオが人生を決める
これは実際、その通りで
僕はイギリスの片田舎で
ラジオを聴く生活に入った。
朝からラジオのEnglishで
自分の感覚を呼び覚まそうと考えた。
そこで聴こえて来た音楽は
例えばDeliusとかHorst,
そしてElgarやVaughan Williams
Benjamin Brittenだったけれど
彼らの音楽を
実際に演奏していてみれば
沸点がわからないものが多い。
例えばエニグマ変奏曲を
かつてブリュッセルで指揮した時
最後の変奏で、どこを頂点にするか
本当に迷う感じが身体に残っていた。
グラインドボーンでは
例えば長年ENOやハレの監督だった
マーク・エルダーという指揮者と
このエルガーについて議論したことがある。
彼は沸点は分かりやすい、と答える。
でも、彼ら英国人の演奏を聴くかぎり
その沸点が見えて来ない。笑
つまり、彼らにとってのクライマックスとは
意外とわたしたちの感覚とは
違うということなんだろう。
2010年あたりに英国に住むようになり
車を借りて
イングランドを旅した時期がある。
田舎道をいくと
延々と田園風景が続くのだけれど
その景色がエルガーの音楽と
すごく重なって見えて来るのに気づいた。
ああ、やはりそうか。
自然というものはこれほどまでに
演奏に影響を与えるものなんだ。
まして作曲家なら、自然がそのまま
音楽に反映される、というところか。
今の英国王チャールズの前で
ホルストやエルガーを
演奏したんだけれど
その時のオーケストラの反応は
尋常じゃなかった。
コッツウォルズの近くで
英国国教会のチャリティだったと思う。
教会に鳴り響いたのは
まるで宇宙の色だった。
ホルストは音に青が来るんだ。
それは初めての体験だった。
一度、ローマで
ドニゼッティのマリア・ストゥアルダを
体験したことがあるけど
その時にローマの音にも
青が加わった。
これは、ドイツやロシア、そして
日本ではお目にかかれないシロモノなんだよな。
そこからすると
イギリスというのは滅法面白くて
ラジオで聴こえて来るのは
例えばラフマニノフだったり
シベリウスだったりする。
チャイコフスキーもピントが合う。
これは例えばロシアとか東欧の音じゃない。
すごく色が薄いのに
結構、中身の濃い味がするんだ。
一度ロンドンで
シェーンベルクの浄められた夜を
演奏したことがあるけれど
彼らのシェーンベルクは
内的な情熱を湛えた音がするんだ。
でも、それが構成的なベートーヴェンだと
意外と淡泊になる。
でも、これがシューベルトになると
例えば悲劇的(交響曲第4番)なんて
見事な色の調和になる。
そこが面白い。
つまり、シューベルトの牧歌的で
田園風景いっぱいの音楽だと
彼らは別の色で応酬するんだと思う。
彼らなりの独特な自然観がある。
そんなイギリス人のベートーヴェンで
印象に残るのが
名ピアニストと言われる
Solomonソロモンだ。
彼の正式名称は
Solomon Cutner(ソロモン・カトナー)だけど
舞台名ソロモンで売っていた
英国を代表するピアニストだった。
彼のベートーヴェンを聴いたんだけれど、
そこには、いわゆる「ドイツ的な構築」も
「ロマン派的な熱狂」も、前面には出て来ない。
音楽は常に抑制されていて、
どこか距離を保ちながら進んでいく。
でも、不思議なことに、
冷たいわけでも、無関心なわけでもない。
むしろ、その抑制の奥に
濃密な内的エネルギーが蓄えられていて、
決定的な瞬間にだけ、
音楽がふっと光を放つ。
それは、頂点に向かって
一直線に駆け上がるようなクライマックスではなく、
気づいた時には、
すでに光の中に立っている、
そんな種類の体験だった。
作品101番のようなソナタでは、
とりわけその感覚が強い。
リリックなカンタービレは
感情を誇示することなく歌われ、
その裏側で、
音色のグラデーションが
静かに、しかし確実に変化していく。
そこには、
「ここが山だ」という分かりやすい標識はない。
けれど、音楽が終わった後に振り返ると、
確かに深い場所を通って来たことだけは、
身体が覚えている。
この感覚は、
イギリスの自然を知ったあとで聴くと、
驚くほど腑に落ちる。
延々と続く田園、
低く垂れ込める雲、
淡い色調の中に、
ときおり差し込む鋭い光。
ターナーの絵がそうであるように、
色は薄く、輪郭は曖昧で、
しかし光だけは、
決して嘘をつかない。
ソロモンのベートーヴェンも、
まさにそのような音楽だった。
そして今、
ベンジャミン・フリースの演奏を聴いていて、
その感覚が、ふたたび身体の奥で
呼び覚まされるのを感じた。
音楽が語る前に、
演奏者が前に出ないこと。
クライマックスを「作らない」勇気。
抑制の中でこそ立ち上がる光を信じる感性。
それは、
英国という土地が育んできた
一つの美意識であり、
ソロモンから、
そして今、
フリースへと、
静かに受け継がれているものなのだと思う。
ショパンの舟歌をフリースが弾いた
動画あった。
あなたはこれをどう思う?
➡https://youtu.be/MewxwNSd-GE?si=z4FlWSKnBZawl0xj
歌に溢れ、非常に表情豊かなショパンだ。
でも、まるで
ロンドンの緑豊かな公園の木々を思わせる。
木の枝のなかに
人の神経を思わせるようなアレだ。
これがイギリス人のなかにも
見えて来る。
それはフリースの場合も同じだった。
中間部で新しい風を見せるのは
非常に斬新だと思いながら
気がつけば、いつの間にか
彼の術中にすっかり巻き込まれていた。
ソロモンから続く
抑制の中に光を宿す英国的な美意識。
それが、今という時代に
どのようにベートーヴェンとして立ち上がるのか。
それを確かめるには
やはり生で聴くしかないな。
◆ ベンジャミン・フリース
ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ演奏会
【日時】 3月11日(水)18:30
【会場】 日経ホール(大手町駅直結)
【演目】
第14番 嬰ハ短調 作品27-2《月光》
第21番 ハ長調 作品53《ワルトシュタイン》
第30番 ホ長調 作品109
【チケット】 ¥4,000
申し込みはこちら≫https://mcsya.org/0311frink0311/
このプログラムに並ぶ
初期・中期・後期のベートーヴェンは
フリースというピアニストの美意識を
最も立体的に浮かび上がらせるはずだ。
僕もこの夜、会場に足を運ぶつもりでいる。
もしよかったら
同じ空気の中で
一緒にこのベートーヴェンを
聴いてみないか。
Muran







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