ドイツ人東洋学者フリードリヒ・リュッケルトは
30歳~31歳のとき、すなわち
1818~19年の間にローマならびに
ウイーンを訪れたことから
ハンマー・プルクシュタールという東洋学者に出会うわけだが
そのまさに1819年
このプルクシュタールが7年前に翻訳した
「ハフィスの抒情詩」(1812年)に影響を受けて
ゲーテの西東詩集が出版されている。
(ゲーテはプルクシュタールに師事している)
ゲーテ(1749~1832)が
1786年以降ローマに度々滞在したことは周知の事実であるが
その著作「イタリア紀行」が出版されるのは
まさに1816~17年のことだ。
「イタリア紀行」を読んだ影響から
リュッケルトが
1818年の殆どをローマで過ごしたと考えるのが自然だろう。
それほどまでにゲーテの影響が強かったのだ。
ゲーテに影響を受けた多くのドイツ人がローマ詣でをする中で
当時同地がドイツ人の社交の場になっていたことも見逃せない。
ドイツ国内では出会えない人たちとでも
ローマでなら
出会えて、人脈として繋がっていく
そういう場所であったに相違ない。
ちなみにリュッケルトはローマでCarl Barth(カール・バルト)という
彫金家で版画家(エングレーヴィングという版画の手法)に出会っている。
リュッケルトの肖像画で現存するものは殆ど彼の手によるものだという。
師と仰ぐゲーテの思いを胸にローマを旅した後
ウイーンで
ゲーテの師プルクシュタールとの縁に恵まれる。
誰かを憧れをもって見ること
そして
その行動に近づいてみると
不思議と己れの中のさまざまな点が
進化していくのに気づく。
そしていつかはその本人と交錯することになる。
こうしてウイーンで重要な出会いを果たしたリュッケルトは
プルクシュタールからペルシャ語を習い
故郷へと帰っていく。
その後1820年から26年までの間
翻訳業などに従事し
1821年にはLuise Wiethaus -Fischerと結婚
10人の子供を授かっている。
リュッケルトはこの時期
ウイーンで得たペルシャ語の基礎をもとに
何と
「コーラン」のドイツ語翻訳を始めることになる。
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