カターニアのニューイヤー・コンサートはお蔭様で満場の聴衆のスタンディング・オヴェーションで幕を閉じた。市長や劇場主(インテンダント)がまた来いと言ってくれるからには、其れなりの仕事で行けるようにしたいと思い、一応モーツァルトの「魔笛」をやらせて頂きます、と言っておいた。
今回お客さんの反応が尋常じゃなかったし、子供たちが沢山会いに来てくれて、彼らに美味いもんを食わせてやりたくなったから選んだ選曲。さあ、どうなることやら。自分の音楽がどう変わったかを見る試金石でもある。
昔英国のグラインドボーン音楽祭で指揮した時、東洋人で初めての快挙としてタイムズやBBCが取り上げてくれたけれど、その時もモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」での成功だったけれど、マネージャーがうまく先に繋げられなくて、頭に来た俺は英国人のマネージャーと大ゲンカした覚えがある。
あの時を思い返してみると、不思議な気分になる。なぜあの時が駄目で今は大丈夫なのか。何処が違うのだろう。
そんな事を考えながら、ロンドンの銀行家の友人が送り込んで来た検事夫妻と魚を食っていると、その音楽キチガイのミラネーゼが極めて面白い話をしてくれた。
14世紀のペルシャの魔法使いが、ある時人間の身体を作ることに成功し、魂を吹き込む前までは、難なくやりおおせたのだそうな。
ところが魂の奴、常日頃からの「自由」を欲して、決して身体という制約のある枠組みに入ろうとはしない。
奴を身体に押し込むために魔術師が取った策とは?
音楽を作曲して、舞踏と一緒に演奏させたのだそうな。
そしたら、魂のやつ、身体に入り込みながら、音楽と一緒に踊り狂った、というオチだった。
音楽を感じるには身体が必要。
そして音楽とは魂そのもの。彼はそう言いたかったらしい。
私は、論旨が飛び過ぎで検事らしくない、と言ってはみたが、実は話の内容の深さにエラく心打たれてしまった。
つまり「音楽とは見えないものだ」ということを伝えようとするメッセージが、此処イタリアでも私の目の前に登場した訳だ。
それを皆さんにお伝えすることこそが、自分の「今生での役割」であることがわかっていないウチは、何度でも同じ経験をさせられる、というわけ。英国のエピソードは、そんな堂々巡りの始まりだったように思えてくる。
最近天命に気付いたお蔭で、「先に進め」という天からの許可を頂いたように思う。
ついでに言うと、陰陽のバランスは取れないと、物事は決して上手くいかないことも理解した。
今回は20曲近くの作品を、ほとんど練習無しで指揮したが、年末年始のイタリア人に働け!という方が無理というもの。
見事に予定されていた4時間半のリハーサルがキャンセル、コーラスとの打ち合わせ無し、ゲネプロ無しの状態でガラコンサートを指揮することは、33歳という若さだからこそ出来たのだと思う。つまり予定が狂うことも「天からの贈り物」と思えるかどうか。
後数日で私はまたもや33歳。歳はとらないことにした。今のところこの歳でイタリアでは通用するようだ。今日はあと数時間で17時間のフライト。早く雑煮が喰いたい!
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