日本人のわたしがイタリアで動物から人間に変われたその理由とは?

イタリアのローマに
10数年住んでいたけれど

その前にはウィーンに
6年ちょい住んでいたんだよね。

全く文化が違う。

フィレンツェの奴らは
ローマより南はアフリカだと言うし。笑

認識とはそういうものらしい。

そして、この違い。
本当に凄まじいものがある。

だから、あえてフィオレンティーノに
文句を言うつもりもない。笑
(Fiorentinoつまりフィレンツェの人達の意)

今日の話も私の話。つまり日本人の話。

ウィーンですごく感じるのは

お店に入ると
その第一印象として

獣が虫を扱うくらいの不遜さ。

そういう傲慢さがある、と滞在中は思っていた。

約6年。でもたぶん違う。

私たち日本人は細やかだし
出会いそのものに全て感謝の国だ。

そうなれば、お客様は神様
などという発想も定着する。

だけど
オーストリアの人たちは、もっと
教育が行き届いていないと思う。

すごくそこは
教育なのだと、思うようになった。

だから、日本人はエライ、
という話ではないのだけれど。

人間というものは
なにによって
形作られるのか。

果たして学校教育だろうか。

私がそれを感じたのは
イタリアに行ってからのこと。

ウィーンとは随分と雰囲気が違った。
そこに本当に驚かされた。

先ず、女性が美しく感じた。
食べ物がおいしくなった。

そして、人と対峙する感覚は穏やかになった。

ドイツ語を語る中で
すごく階級差や教育の差を意識させられた
オーストリアでの生活は

かろうじて音楽という必殺技と
日本人パスポートという世界一の信用で
切り抜けていたのだと思う。

でも一人の人間としては
どうだっただろうか。

おそらくは、相手にもされていないはずだ。
お店に入ってみれば
その意味が良く分かる。

虫けらよ。速く金を払って出て行ってくれ、
という声が聴こえて来るようだった。

ところが。。。

イタリアに行くと
人が自分と向き合う感覚になる。

もちろんみんなではないけれど。
ゲーテがブレンナーを越えた意味も
そこにあったはず。

Humanismus

Umanoという言葉

ウマーノ。
イタリア語だ。
人間性とでも仮に訳しておこう。

ひょっとしたら
アラブとか入っているからかもしれない。

最初はそういう風に思った。
でもどうやら、違うのだ。

私はイタリアで
動物から人間にしてもらった。

その本当の所以は。。。

また話そうと思う。

オーストリアでは動物だったのが
イタリアでは人間になったわけだけれど

実は日本でも動物だったんだ。

それがイタリアに行って
良く分かったという話。

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