僕がイタリアのシチリアにあるパレルモで多くを学んだことは
いろいろな場所でインタビューに答えたりしたことでご存じの方も多いと思う。
パレルモにはテアトロ・マッシモがあり、この劇場は20年以上閉鎖されていた。
パレルモ市長のクリントン政権との共同政策によって、マフィアを一掃する動きが実現し、
それとともに街のシンボルであったテアトロ・マッシモが1997年に再開した。
僕の師ペーター・マークは60年代に指揮したゼッフィレッリとの伝説的な「ドン・ジョヴァンニ」以降
一度もマッシモに登場することはなく、80歳近くになってそのオープニングコンサートに招待された。
僕は当時コンクールに優勝したころであったから、少しずつ自分の仕事をイタリアを中心とした活動の中でこなしていたのだが、マエストロは僕のサポートが必要だと判断したらしく、コンサートの後にリハが始まるはずの超豪華キャストによる「こうもり」の副指揮者に僕を指名してきた。
96年に起こった一連の幸運で、偉大なるモーツアルト指揮者ペーター・マークの「魔笛」を代わって指揮することになってから、マークの僕に対する見方は変わってきた。
自分のテンポと僕のテンポの違いについて神経質になりだしたのだ。
ほんのうっすらとしたテンポ感の違い。そこがモーツアルトの命であることを彼は知っていた。
実はマエストロのテンポに忠実に、と思って指揮してみても、どうしてもそのテンポがとれなかった。
それが彼からの云わば口うつしの伝承だったようだ。
パレルモで僕を「こうもり」のアシスタントに指名してきた彼の頭の中には、
共に連日の魔笛を「交互に」指揮したときの出来事があったのだろう。
僕がすこしずつ彼のモーツアルト像を吸収し始めていたのを感じたのではないか?
ちょうど「フィガロ」を振り終えて思うのだが、僕はマークからフィガロを学んだことはないが、
マークの持っていたモーツアルト像は自分の中にはっきり伝承されていることを実感した。
遂に師の呪縛から解き放たれて、自分のモーツアルト像が出来上がったと思っている。
話はそれたが、「こうもり」のキャストは素晴らしいものだった。Daniela Mazzucato, Giorgio Ariostini, Angelo Romero, Max Rene Cosotti、Leonardo Monreale他映画スターやコミカルな演技を得意とする歌手たちがほかにも名を連ねていた。演出はフィリッポ・クリベッリ。結果的にこのフィリッポが僕のパレルモでのキーマンとなる。
結局高齢のマエストロに代わり、オーケストラの仕込みから歌手の音楽稽古まですべてを任された。こちらはウイーン方言での「こうもり」に慣れているが、あちらはイタリア語での上演。トレヴィーゾで仕込まれたやり方に則って、オーケストラ練習はいずれも歌いながら稽古をつけていく。
そこで考えたのは、ウイーン風の雰囲気が音に現れるように、ヴィーナリッシュで歌いながらオーケストラの稽古をつけ、歌手のオーケストラ合わせからイタリア語に切り替える方法をとっていった。
これを見ていた演出家のクリベッリ氏の提案で、僕が公演期間中、毎回フィナーレの「雷鳴と電光」を指揮することが決まった。フィリッポの発案でマエストロを舞台の上で歌手たちと一緒に将棋倒しさせる1シーンが決まったからだ。そこに使われる「雷鳴と電光」をアシスタントの僕が指揮するという話で、これが正式なテアトロ・マッシモでのデビューとなった。20代の終わりをこうして大劇場のお祭り騒ぎで終わることができたのは、何よりの幸運だった。
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